日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「死」について思うこと(たまゆらの記㊹)23/8/18

※先回身近な人に対して私の「死去」について今考えていることの要点を簡潔に書いた。

ここでは「死」にまつわることのいくつかを述べる。

〇死について

「死」には「わが人生の死」と「宇宙自然界の中での死」があると思っている。

「わが人生の死」については死を、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチに倣って、「一人称の死」(自分の死)、「二人称の死」(自分の心に残っている人の死)、「三人称の死」(その他の死)と大きく三つに分かれると思う。

 

一人称の死は、思いめぐらすことはあっても最終的に体験できないし、死後のことは周囲の者に委ねるほかない。

結局のところ、宇宙自然界に還ると考えている。

二人称、三人称の死については、今までもブログなどに様々な角度(病死、事故死、自殺、他殺、戦争死、災害死など)から書いている。

 

〇死後について

死後の世界や「魂」のことを考えるのは面白いだろうが、今の自分にとって、あまり関心はむかない。

印象に残る言葉に「今、いのちがあなたを生きている」というのがある。

「いのち」という大いなるものが、「わたしに」「あなたに」「こらから生まれてくるすべてのものに」、何らかの機縁で宿り生きている。

 

このような表現に出会うと、どういうわけか自分主体にものごとを捉えて生きてきた面がかなり強いなと思う。

「いのち」の水源から何かの「縁」で生まれ出て、その中で自然環境やさまざまな人と出会い、何かしら影響を受け、味わいを覚え、やがて「いのち」の水源に還っていく。

 

21/4/1〇ヒューマニエンス「“死” 生命最大の発明」から。

内容:「死は生命最大の発明」と語ったのがスティーブ・ジョブズ。そして科学者たちは「死」は、生命が進化のために獲得したシステムだという見解を見出ている。実は私たちは、いつか朽ち果てるカラダという乗り物を使って、生殖細胞という不死の細胞を次世代に受け継ぎ、多様性を手にしてきたというのだ。さらに生と死の境界におこる脳の不思議な世界や、不慮の急患による生命維持の可能性を秘める人工冬眠などの最新研究が印象に残った。

 

番組を通しての感想は、いろいろな角度から探っても「死」そのものは、永遠に解明し得ない現象であろうし、定義も立ち上がらない。理由は「体験・実験出来ない」からである。不老不死の可能性については、どこまでも妄想に過ぎないと思う。

個体の「死」は重要でないとの発言があったが、現社会では「ひと」は社会のなかで、生まれ、育ち、死んでいく文化的な生きものであるとの考えで、あまりにも個人に焦点をあてて「死」を捉えるのは、ほどほどにする必要を感じた。

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〇死について考えるといろいろな思いがでてくることもあり、今迄ブログに発表した文章で、今思っていることとあまり変わっていないものをあげる。

 

※ブログ【日々彦「ひこばえの記」】の【◎「自己」と「非自己」から「死」に対する心構え】(2020/3/4)の記録。

https://masahiko.hatenablog.com/entry/2020/03/04/000000