日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎たまゆらの記①

※自分の身体と状態と向き合いながら、主に「老い」に焦点を当てつつ、日記風に記録していこうと思う。

 

〇現在思うこと

 病が進みつつある私にとって、また友人の困難な状況に触れるにつけ、この先どのようになっていくのだろうかと考えることもある。だいたいは気楽に暮らしているが。

 

「老いる」とは、どういうことなのかについては、仕事や身内の介護する中で、「次の春が訪れない冬」のイメージがあった。

 私たちは、遺伝子の振る舞いから見たら、母親の胎内で受精した瞬間から死に向かって歩み始めるらしい。しかも一瞬先のことは誰にもわからない。

 

 しかし、生まれてからかなりの年齢に達するまでは、意識としては、いつでも明日に向かって道が開かれていると思い込んでいる。その道には幾多の分かれ道があり、ある時は迷いながらも、前に向かって道が伸びていることに疑いを抱くことは少ない。幼年期・少年期から青年期にかけては、その道が大きく広がっていて、働き盛りといわれる壮年期にも衰えることはない。

 

 ところが、ある段階に来ると、道がかなたに伸びているとはとても思えなくなってくる時期が来る。現在の私のように。

 そして、人生という道がやがて行き止まりとなるとの意識が段々強くなっていく時期が来る。

 

 私たちの一般的な季節感では、春は生命の息吹が芽生え、夏は生命が躍動し、秋は生命の豊かな実りを迎え、そして冬は来るべき春に備えて生命のエネルギーを蓄える時というイメージがある。

 しかし、人生の季節では、老年期は秋から冬になる時期だが、巡ってくるべく春が描けないのである。しかもそれが何時まで続くのかわからない。
 

 なぜ「老い」について、このような寂しいイメージが湧いてくるのかというのが、福祉・介護関連の活動をしていた頃の問題意識となった。

 老齢や死は人としての自然現象であるにも拘わらず、現代社会ではマイナスの感情が強い。若さや生産性に価値があり、老齢や死に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていく貧しい人生となる。

 

「進歩するのが良い」「役に立つのが良い」「できるのが良い」と。
「いまここに、そのままの、あるがままに存在している」ことよりも、「明日に向かって夢を託す」ことに日々の活力の多くを費やしているのではないか?

 

 ここに来て、過去や未来のことをまったく考えずに、一生懸命に今を生きている孫の育ちを見ることでも見方が変わってきたのを感じる。


 自分は死んでいなくなろうとも、社会そのものは続いていき、次代に繋がっていく。
 また、小さな子どもと違って、過去や社会状況を振り返り、次につながるものを残していきたい気持ちもある。

 

 本質的に、人間は良く生きたいという本能を強くもっていると思われる。どんなに年を取ろうと、どんなに重い病気になろうと、どんな苦境に立とうと、「良く生きたい」という気持ちは簡単にはなくならないはずである。

 それに応えてくれるものが、今ここに、日常の暮らしに満ち溢れているのではないだろうか。

 

 次に進むことにあくせくして、今ここに在るものに、どれだけ心を向けているのか。
 季節としての巡りくる春だけではなく、今ここに在ると思われる冬の最中の「春」をどれだけ観ようとしているのだろうか。

 

 この先全く不安がないとは言い切れないが、今やれることに無理がないところで向き合うだけと思っている。