日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎死の心構え(たまゆらの記㊾)

〇親しくしている友人の死去や自らの病状の進み具合にともなって、「死」について考えるときがある。

 

先日ヒューマニエンス「"死の迎え方"ヒトの穏やかな死とは」をみる。

その番組の中で次のことが印象に残った。

死を迎えた人は、数年前から栄養や水分を与えても身体に利用されずにBMIが徐々に減少するという傾向が見られており、終末医療の考え方が変わりつつあるという。

 

十分な栄養や水分を摂っているにもかかわらずBMI(体重)をはじめ体の重要な臓器の重量が減っていく状況は、体が栄養を利用できなくなってきているということで、そこへ点滴や胃ろうなどで無理に摂取し続けると、逆に患者を苦しめることになるとのこと。

 

また、最後には下顎呼吸が発生する事が多く、これは空気を十分に吸えていない状態であるが、そのことによって脳内麻薬のエンドルフィンなどが大量に分泌されて、苦痛を緩和していると考えられている。

 

なお、ヒトが死を意識することによって精神的に成長するPTG心的外傷後成長というものも見られている。人生観の変化として、1.人生に対する感謝、2.新たな視点、3.他者との関係、4.人間としての強さ、5.精神性的変容などが起こるとのこと。

ガン患者の緩和ケアに携わる医師によると、医療用麻薬などを使用して苦痛を和らげることによって、最後まで満足して生きるということを重視しているという。

 

九二歳で死去された義父は、2008年8月の朝食後「お茶が美味しいなー」と言って、すぐに横になったのだが、だんだん呼吸が荒くなり、下顎呼吸になり、そのうち呼吸が止まったようになり、主治医に連絡し午後二時に死亡の確認がされた。苦しそうというより美しく、清らかな寝顔で、終始穏やかであった印象がある。

----

現在の私は、「死」よりも「今の生を大切に」したいという思いがある。

それでも「死」への心構えは大事だと考えている。

まず、死について人間のごく自然な状態の一部分として扱うことから始まるのではないかと思う。

一つひとつの生命は自分ではどうしようもない限界をもっていて、周りのどのようなはからいも徒労に終わることが多いのではないか。

 

緩和ケアに携わる医師などによると、最後まで満足して生きるということを重視しているというとの報告がよくされている。

こればかりは何とも分からないが、わたしは少なくとも穏やかに「死」を迎えたいと願っている。

-----

参照:五木寛之の「死」への考え方・心構えに面白いものを覚えている。

【人はつまるところ「大河の一滴」である。大きな河の流れに身をまかせて、おのずと海へくだってゆくのだ。その流れの上で、ピチピチ跳びはねたり、岩にぶつかったり、深い淵によどんだり、流れに逆らって渦を巻いたり、いろんなことをするが、結局は一滴の水として海に還る。死ぬということは、つまりは大きな生命の海に還ってゆくことだと考えたい。なつかしい海の懐に抱かれてしばしまどろみ、やがて太陽の熱と光をうけて蒸発する。そして雲となり、霧となり、雨となって、ふたたび空から地上へ降りそそぐ。】

(※五木寛之・斎藤 慎爾(著)『漂泊者のノート―思うことと生きること』より)