日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録(1歳3~4ヶ月)『適当』という人間のかしこさ」

〇孫は大部前からこちらが言うことはおおよそ分かるようになってきて、「オムツとって」「赤いあれを持って来て」「そこを閉めて」などというと応えるようになってきた。

  すこし前から、言葉らしきものを出すようになる。「ママ」「マンマ」「ババ」などを言っている。しきりに言い、こちらにもはっきり分かるのは「ワンワン」である。

  この辺りは犬を連れて散歩している人が多く、散歩に連れていくと、犬を見かけると指差しして「ワンワン」という。ところが猫を見ても「ワンワン」という。

 図書館に行くと、自分で探すが動物に関心が高く、指差して何か言っている。

 絵本に動物が出てくると、犬だろうが、猫、熊、ライオンだろうが、指差しして「ワンワン」という。

 

 むろん個別のことは認識している。絵本で「子猫ちゃんどこにいるかな」というと、きちんと指差しする。以前妻が絵本で「ライオンだガーオ」と読んだことが気に入って、ライオンのところに来ると「ガーオ」と声をあげる。

 おそらく「カテゴリー」としての動物全般を「ワンワン」と言っている。

 

 朝通路で管理人のおじさんと出会ったとき指差しして「ワンワン」という。おじさんも心得たもので「かのちゃん、ワンワン、おはよう」と笑顔で応じる。おじさんも動物であるけれど。

 今では一つ一つの言葉も少しずつ覚えて、出すようになってきた。だんだん増えていくのだろう。

 

 池谷裕二は、『パパは脳研究者』の「『適当』だからこそ柔軟な脳」の中で、チンパンジーとヒトの脳の使い方の例を挙げている。

  【要約すると、チンパンジーにフォークを見せた後、単語リストからフォークと書かれたカードを選ぶことを教える訓練すると、モノを見せただけで、正しいカードを選ぶことができるようになる。しかし逆(単語カードを見せた後、フォークを選んでもらう)はできない。

 ヒトはフォークという単語カードを見れば、実物のフォークを選ぶことができる。

 これがヒトとチンパンジーの脳の使い方の違いと述べる。

 数学的に言ったら、チンパンジーの方が正しかったりする。というのも、『AならばB』だからと言って『BならばA』とは限らない。『犬は動物』だけど『動物が犬』ではない。

 チンパンジーは「AならばB」と教えると、Aを見てBを選ぶようになるが、逆は学習できない。逆ができるヒトの脳の方が、非論理的で「ずさんな推測」をしている。】

 

 そして次のように言う。

〈言葉を獲得していくためには、曖昧さやいい加減さが重要。でないと「カテゴリー」という概念を理解することが出来ない。〉

 

 さらに脳育ちコラム「『適当』という人間のかしこさ」の中で次のことを述べる。

〈記憶は、正確すぎると実用性が低下します。いい加減で曖昧な記憶の方が役に立つのです。

 例えば、ある人物を覚えたいとき、「写真」のように記憶すると、ほかの角度から眺めたら別人となります。記憶には適度な「ゆるさ」がないと、他人すら認識できません。記憶は、単に正確なだけであっては役に立ちません。ゆっくりと曖昧に覚える必要があります。〉

〈記憶力と想像力反比例:一般に、記憶力のいい人ほど、想像力がない傾向があります。なぜなら、記憶力に優れた人は、隅々までをよく思い出せるため、覚えていない部分を想像で埋める必要がないから、普段から「よくわからない部分を空想で補填する」という訓練をしていないと、想像力が育たないのです。記憶力の曖昧さは想像力の源泉です。〉

〈ヒトの脳はサルとは違い、成長とともに「曖昧な記憶」をする部分が発達していきます。ひらがななどの文字の認識も、ゆるやかな記憶の賜物です。記憶が正確だと、お手本の「あ」と手書きの「あ」を、同じ「あ」として読むことができません。特定の1種類の「あ」しか読めなかったりしたら、困ります。そういう点からも、ヒトの適当な記憶力は私たちの認知の核となっている〉

 

 言葉はコミュニケーションの手段として大きな要素であり、幼児がどのようにして、身につけていくのか見ていくのは面白い。また、記憶力と想像力がどのように育っていくのか興味は尽きない。

 

 池谷裕二『パパは脳研究者』は、第一子である娘さんの誕生から4歳までの成長を脳研究者の立場から観察し、脳の発達と機能の原理から分析したことをまとめたもの。

 記述は1か月単位、近来の脳科学の知見と親バカ的なエピソードを交えながら娘の成長を記録している面白い著書である。本書も参考にしながら、私も孫の成長を記録している。

◎『アイズ』の「口笛カフェ」と「くちぶえ教室」について

〇高次脳機能障がい支援の『アイズ』の口笛カフェに参加する。当日は、昨日のびわ湖大津プリンスホテルで開催された「障害者の文化芸術フェスティバル」での『白井いさおと愉快な仲間たち』の報告から始まった。

 

 その後、一人ひとり口笛演奏を披露した。皆さんの巧みな口笛を聴き惚れながら、私も遠慮気兼ねがなく「赤とんぼ」「上を向いて歩こう」を吹いてみた。むろん演奏といえるものでは全くなく、ほとんどかすれたような音しか出なかった。居宅で練習しているときは、もっと音が出ていたのだけどなと思いながら吹いていた。

 しかし、練習では音がハッキリ出るときもあるし、そのときは手応えも感じるが、どちらかというと不安定である。先ずは安定して持続的にきちんと音を出すことが必要だなと思った。

 こんな状態でも、和気あいあいの気風の中で、あとくされを全く感じずにいられるのは、皆さん気さくな方ばかりというのもあるが、この活動の成り立ちにあるような気がする。

 

 自由に口笛を楽しむ会「口笛カフェ」は、白井いさおさんの口笛CD作成から始まった「プロジェクトs」の「口笛で紡ぐ糸〜今を生きる〜プロジェクトs」の活動の一環として始まったと聞いている。

 『アイズ』の大きな特質として「障がい者と健常者が一つにつながるプロジェクト」活動に重点をおいていることがある。

 

【『アイズ』はワクワク・ドキドキをみんなで考えます!

たとえば口笛コンサート・料理教室……

それぞれの<足りない>部分を一緒に考えてやってみて、そしてみんなに伝える。

そうでしょう、あなたもそんなワクワクやドキドキすることを

<アイズ>と一緒にはじめてみませんか?】

 

 往々にしてこのような支援団体は、その病状に関係した人、関心のある人で構成されることが多い。

  だが、難病を抱えていようが、それぞれは病気を生きているわけではなく、一人ひとりのたった一度きりの人生を生きている。

 また、「病」というのは特殊であろうと、誰にでもなる可能性があり、高次脳機能障害もしかり。

〈障がい者〉と〈健常者〉の垣根をなくす理念は「口笛カフェ」によく現れている.

 

 三月からくちぶえ教室を始めるとのことで、私たち夫婦含めて3人、いち早くレッスンを受けた。お粗末なのは私だけで、妻ともう一人の方は、かなり上手である。

 懇切丁寧なアドバイスを受けて、やる気もりもり、また一段と楽しみが増した。

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〇「口笛カフェ」の「くちぶえ教室」に参加して。

 自由に口笛を楽しむ会「口笛カフェ」が三月から「くちぶえ教室」を始めるとのことで、私たち夫婦含めて3人、いち早くレッスンを受けた。

 

 音を出す前にいくつか基本となる要点があり、正しい姿勢、腹式呼吸、口輪筋(口の廻りの筋肉・唇)に力を入れること。その上で舌、唇、息を微調整しながら口笛を吹く。

 

 腹式呼吸、口輪筋を鍛えることは、構音障害、嚥下障害などのリハビリに限らず、人が健康を維持するうえで大きな要因といわれている。

 

 近来、趙高齢社会になるとともに介護が必要な高齢者が増加し「口腔ケア」の大切さがいわれ、今では保健・医療・福祉の分野に広く浸透している。高齢者などが嚥下障害から肺炎になることを防ぐのは「ケア」の重点項目になっている。

 

 口腔ケアには口腔の「清掃を中心とするケア」と「機能訓練を中心とするケア」がある。要介護高齢者の口腔ケアでは、誤嚥性肺炎や口腔内の乾燥を予防すること、さらには老化や障害による口腔機能の低下を予防・改善することが主眼となる。

 

「咀嚼する」「飲み込む」「鼻で正しく呼吸する」「滑舌よく話す」には、口をしっかり閉じることができる力(口唇閉鎖力)が必要で、口輪筋を鍛えておくことが大切。筋肉は使わないと衰えるので衰えさせないことが重要。口笛は楽しみながら自然に口輪筋の強化トレーニングができるとされている。

 

 レクチャーを受けて、わたしは腹式呼吸になっていないのと、口輪筋の劣化していることがよく分かる。なんでもそうだが、下手な鉄砲も数打てば当たる式では、いつまでも上手くならない。

 

 ものごとにはポイント、理があり、特に口腔内の容積を微調整しながら工夫を重ねる口笛演奏には大事である。

 すぐれた講師による親身になっての指導はわかりやすく、ある程度上手な妻も大層喜んでいる。

 

 居宅に帰り、練習方法やどのようなところに気を置くか、また欠陥などもよく分かり、一緒に楽しんでいる音楽の素養が豊かな妻のアドバイスもありがたい。徐々にそれなりの音も持続して出るようになりつつある。

 

 自分の口を楽器として使う面白さとともに、72歳の手習い、リハビリ目的としても口笛は有意義だと思っている。

◎難病を抱えて、今思うこと

〇脊髄小脳変性症の診察を受ける。

 昨日、寒波南下で今冬一番といわれている寒さの中(神戸2℃)、退院後3ヶ月目の脊髄小脳変性症の診察を受ける。来る途中風がとても強く、揺らされながら病院にたどり着く。風花が舞っていた。

 この総合病院はかなり大きく、いつも大勢の人が寄っている。むろん老若男女さまざまだが、付き添いも高齢化している人も目立ち、現日本の高齢化社会の縮図のようだ。新型コロナウイルスの影響かマスクをしている人が多い。

 私も1週間前に風邪をひき、熱もなく2日でかなりおさまったが、まだ少し尾を引いていて、漸く手に入れたガーゼ用マスクをつけた。

 診察では、主治医の見立てでは、症状はあまり変わっていないという。

 私自身は坂を下るときに、特にぎこちなくなるのは大部前からだが、だんだんちょっとした勾配でも、妻に支えられて歩くようになった。

 私の中では「下り坂」の歩行状態が病状の具合の目安になっている。徐々に劣化が進んでいるようだ。今後どうなっていくのか。

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 その前日に、50歳代の友人IさんがALS(筋萎縮性側索硬化症)で2週間ほど入院するとの連絡があり、ビックリし、家族や今後のことを気になり、いくつか思うことをメールで伝えた。

 私は50歳を過ぎてから、病院併設型の筋ジストロフィー症やALS(筋萎縮性側索硬化症)など肢体不自由者・児が多くいるS市の養護学校(現・特別支援学校)で、支援ボランティアグループを立ち上げ、要請を受けて非常勤講師をし、病棟に出向いての訪問教育もしていた。かれこれ13年程前になる。学校や病院にはいろいろな方がいて、そのときのことを思い出していた。

 Iさんは絵の才能が豊かで入院中描いた絵は愉しい。また人徳があり、一緒に親身になって考える仲間に恵まれているのは心強い。

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 ここにきて自分が難病を抱え、〈障がい者〉と〈健常者〉の垣根をなくす理念の高次脳機能障がい支援『アイズ』に関わるようになる、という巡りあわせが続いている。

 

 このような状態で、特に次のことに気をおいていきたいと思っている。

 一つは、今の自分の状態を冷静に見つめ状況に対応する客観力が必要ではあるが、出来なくなることに捉われず、どのような状況になろうと、今やれることに心をおいていくこと。精一杯の力を注ぐこと。

 もう一つは、人生を「できる」ということからではなく、「できなくなる」というほうから見つめてみること。もっと違ういのちの光景が眼に入ってくるのではないだろうか。 

◎孫の成長記録(1歳3ヶ月)一生懸命に今を生きる

〇孫が生まれてから1年3か月になる。歩くことをはじめ、さまざまなことに活発になってきた。その成長を見ていると、ひとりの人が生きていくことに、いろいろな思いが湧いてくる。

 1歳を過ぎたころから、伝え歩きがはじまり、今はほとんど歩き回っている。まだまだ危なっかしいところがあるが、日に日にしっかりしてきた。

 この辺は、赤ん坊が成長する上り坂と比例したように老人が下り坂を降りていくと言われるが、まさに私の足の状態と双曲線をなしているような気がする。

 

 また、転ぶときもあり、何かにぶつかると泣くときもあるが、「痛いの飛んでいけ」と言いながら頭をなでなですると、すぐに泣き止むことが多い。

 食欲が旺盛で、幼児用のスプーンやフォークも扱えるが、すぐに手づかまりになることが多い。物足りないと催促の大きな声を上げるが、しばらくすると収まり、次のことに邁進していく。

 

 わが家には絵本以外は特別な玩具はなく、そこらへんにあるオムツ、スリッパなど、何でも遊び道具にしていくのは見ていて面白い。

 未来や過去のことをほとんど考えず、一生懸命に今を生きているようだ。

 

 下條信輔「まなざしの誕生 赤ちゃん学革命」の中で、赤ちゃんを「好奇心のかたまり」「冒険家」「発見をする生き物」「応答する生き物」として見ることを提唱する。

 そして、赤ちゃんを精神的にひとりの人格として認めて付き合うことが大事だと言う。なぜなら、赤ちゃんは「『心をもつ者』として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長する」と述べる。

 この書については、別の項で扱う。

◎「自分のこととして」みていく

〇今話題になっている新型コロナウイルスのことで、どちらかというと私にはある程度距離を置いた出来事だったが、奈良の観光バスの運転手に症状がでたとの報道に、バスの運転手をしている友人のS君のことを思い、ぐっと身近なことになる。

 

 ヒトからヒトあるいは動物からヒトに感染する伝染病は、古くから人間の生命健康を脅かすものとして恐れられていた。

 また、ウィルスは他の生物(動物、植物、細菌)の細胞を利用して自己を複製できる微生物の一種である。タンパク質の殻と核酸(DNAまたはRNA)から成っている。細菌よりもさらに小さい。生命の最小単位である細胞を持たないので非生物とも呼ばれるが、遺伝子を持っており、他の生物の細胞を利用すれば増殖することができるという生物の特徴も持っている。

 そして感染に関しては、発病するか否かは、宿主側との力のバランスによって決まる。ウイルスに限らないが、免疫力の低下した高齢者、病弱者などは病状が悪化する可能性が高い。

 

 今度のような事件や、近来の大きな災害が起こるたびに、そこに親しい友人が関わっていると、どうしているのか、その後どうなのか、大層気にかかってくる。日本に関しては、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨など、どの地域でも親しくしている友人がいる。そうでないと、自分のことというよりも、距離を置いてみることが出来る。

 

 この辺はいいい加減な感じもあるが、文明、交通の発展により、世界でも起こることはやがて自分にも関係してくるおそれがあることは心しておきたい。

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 50歳を過ぎてから難儀を抱えた高齢者や重度心身障がい者関連の活動をしていたとき、気持ちの置き所は、一人ひとりに応じていろいろではあっただろうが、総じて第三者的な視点で関わっていることが多かったと思う。

 今は自分のことのように感じることも多く、あの時にあの人はこんな気持ちではなかっただろうかと振り返ることもある。

 

 ある問題について、「自分のこと」としてみるのか「他人事」としてみるのかで、向き合う態度が極端に違ってくる。「他人事」は、時がたつとともに流され、関心が薄まっていき、やがて忘れさられていく。

「自分のこと」として、想像力を働かせることから見えてくることも多いのだろう。

 

 最近南海トラフ地震の情報などに触れることもあるが、そのような体験がないか、あるいは想像力が及ばないのか、どうも自分の身近な問題になっていかない傾向がある。

 どんなことでも、他人ごとになると、どこかで「何をそんなに懸命になるんだろうな」という思いがわく。一旦自分のこととなると、妙に力が入っていく。

 

 考えていくときに、「他人ごと」と「自分のこととして」と、どちらにたって見ていくのか、大きな分岐点になるような気がする。少なくとも「他人ごと」である限り、きちんと考えていけないと思っている。

 

 昨年三週間の入院中、少なからずの方に、自分もそのようになっていくのだなと思ったこともある。

 超高齢社会など、いろいろなことが他人事としてではなく、自分のこととして身近な課題になってきている。

◎〈生き抜く〉ことへの信頼感を培う(岩崎航のエッセイなどから)

〇岩崎航エッセイ集『日付の大きいカレンダー』から
・「僕にはもう夢も希望もないよ」
茫然と無感動な日々に流されていた頃、ぽつりと母に言ったことがあります。たんなる恨み言や愚痴というよりも、ごまかしようのない命の奥底からもれた呻きだったと思います。それに対して母が返した言葉もまた静かなものでした。
「お母さん、かなしいな」

 かなしいな。たった五文字のこの言葉とその静かな声の響きは、今でもありありと心に残されています。親不孝をしたと思います。
 我が子が人生に対して夢も希望もないとつぶやき、絶望に覆われている姿を前にして母は何を思ったでしょうか。
——
悲しむと
知りつつ
叫ぶ
夕立が
降っている

------
何にも言わずに
さすってくれた
祈りを込めて
さすってくれた
決して 忘れない
——–
『点滴ポール ~生き抜くという旗印』にも、母親とのエピソードに触れている。

 岩崎さんの母についてのエッセイを読んで、乙武洋匡氏の逸話を思い出す。

【『五体不満足』から、その一部を見ていく。
「ひとりの赤ん坊が生まれた。元気な男の子だ。……先天性四肢切断。分かりやすく言えば、『あなたには生まれつき手と足がありません』という障害だ。……(出産直後)の母親に知らせるのはショックが大きすぎるという(病院側の)配慮から、母とボクは一ヶ月間も会うことが許されなかった。……対面の日が来た。その瞬間は、意外な形で迎えられた。
(胴体にジャガイモがコロンとくっついているような体)に『かわいい――』母の口をついて出てきた言葉である。……母がボクに対して初めて抱いた感情は、驚き・悲しみではなく、『喜び』だった。生後一ヵ月、ようやくボクは『誕生』した」(日々彦要約)と書いている。

 乙武氏にとって、この母の言葉が、明るい生き方の原点となる。あとがきで、「五体が満足だろうと不満足だろうと、幸せな人生を送るには関係ない。そのことを伝えたかった」と述べている。(乙武洋匡『五体不満足』講談社、1998年)

 穿った見方をすれば、その場のことは、赤ん坊の乙武氏には分からない筈である。後から聞いた話をもとにした物語ともいえる。
しかし、そんなことはどうでもいいので、乙武氏の中では実際にあった話であり、その後の生き方を左右する原点である。(2015年2月8日のブログから)】

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〇特別な人の話にとどめておくことはしないでおきたいので、あえて私のことにも触れる。
 私が両親、特に母に支えられていたことを、まじまじと感じたのは「内観」研修である。
 小さい頃、ことばはまともに喋れず、動作もかなり鈍かったそうで、同年齢の子たちの動きにもついていけないことが多かったらしい。

 両親や叔母はとても可愛がってくれ、特に社交的な母は、会う人ごとに「この子は大器晩成で、将来は楽しみにしている」というようなことを言い続けていたそうである。

 私も、それを時々聞いていたこともあり、友達と遊んでいても、ちぐはぐな動きも多かったのではないかと思うが、劣等感を抱くようなことは全くなかった。そもそも比較意識そのものがなかったと思う。何かとぐずぐずしていたので、「ぐずまさ」と呼ばれていたが、そんなことも、親しみを込めているように感じていたので嫌な思い出がない

「内観研修」で、それらのことをつぶさに振り返ったときに、本当に恵まれていたんだとしみじみとしたことがある。そのことは自分の育ちに大きな影響をもたらしたのではないかと思っている。

 子どもが育っていく中で、生きる(生き抜く)ことへの信頼感が培われていくための、親(親代わり)の存在の大きさを思う。この信頼感は、単なる親子の関係を超えて、人としての大事なことがつまっているのではないだろうか。
 どんなことが子どもに入るかは、一様に決められないが、ことばを超えた心のやりとりが、その後の育ちに多大な影響を及ぼすのではないだろうか。

 子どもだけではなく、どのような段階の年齢に関わらず、人が成熟していくのに、様々な人とのことばを超えた心温まる関わりの相乗効果が大きいのではないかと思っている。

参照・岩崎航エッセイ集『日付の大きいカレンダー』写真:齋藤陽道、(ナナクロ社、2015)

・本ブログ◎どの人にも無限の可能性がある(乙武洋匡氏から)(2015-02-08)

・本ブログ◎子どもや若者の育ちを支援する場を(2015-02-09) 

◎ある制約から可能性をひろげる(館野泉さんに触れながら)

※館野泉さんに触れながら、「制約」(条件や枠をもうけて、自由な活動や物事の成立をおさえつけること)と、それにとらわれることなく、自由に可能性を広げていく見方を考える。 老化・疾病・障害の見方にも大いに関係していると思う。

 

〇 館野泉さんのこと

 2002年、国際的ピアニストとして演奏活動を行っていた舘野泉は、コンサート中に脳出血で倒れ、右半身不随となるが、2004年「左手のピアニスト」として復帰以後、演奏会、録音ならびに新作委嘱などを通して、左手ピアノ曲の普及に努めている。その美しく豊かな表現は、両手奏法に引けを取らないばかりか、新しい演奏法を編み出し、多くの人に感動をもたらしている。

 

 5年前、私たちはその演奏会を聴きに行った。最初左手だけで弾くことに少しとらわれて聴いていたが、和音も旋律も左手で弾く、というよりも身体全体を使って弾いている姿、合間での話を含め、すっかり魅せられてしまった。

 

 左手だけでの演奏を考えたとき、ほとんどの人が反対したそうだが、できるか、できないかではなくて、やりたくなって始めたところ面白くなって、だいぶたってから左手だけというのは難しいなと思ったそうだ。

 ピアノを弾くのは脳、呼吸、足などはもちろん全身を使うので、「音楽の本質を伝えるのに、両手も左手もない」という。

 

 そのほか、次のような言葉がある。

・「できるか、できないかは考えない。やりたいか、やりたくないか、やりたいと思ったら もう駆け出している。」

・「あれができないこれができない、と落ち込むのはもったいない 積み重ねてきたものは 何があっても奪われない」

「和音も旋律も一つの手にまとまっていることで、かえって音楽がよく見えるようになった」

・「見た目だけで、二本の手で弾くピアノを一本で弾くと考えないでほしい。左手で演奏する独立した楽器だと思ってほしい。左手は、両手の半分ではない」

 ※舘野泉『命の響』(集英社刊)、館野泉・中村桂子対談『言葉の力人間の力』、(佼成出版)など参照。

 

 5本の指しか使えないというのは、指は10本あるのが「普通」という前提からくる制約で、指が10本しか使えないというのも制約である。

 この「普通こうである」という前提が制約になって、人(身体)のもっている可能性、自由度を阻害していることも多いのではないだろうか。

 

 人が鳥のように空を飛べないという制約から、発想を展開し飛行機が発達したように、科学技術はそのように可能性をのばしてきた。ものの発達は人の心のありようから促されてきたともいえる。

 

 これについて、館野泉さんのコンサートに触れながら鷲田清一は次のように述べている。

〈ひとが不断に息を継がねばならないのと、ついに空を舞うのができないのと、同じように。問題はそこで何をつきつめるかだ。そこに何が訪れるかだ。そのとき、制約はもはや限界ではなく、ひととその歴史を超えたある新しい価値のかたちとなる。ある時代、ある場所、ある両親の下に生まれたことが、そのひとが生みだす「作品」に厚みをあたえるこそすれ、もはや「制約」でもなんでもないように。

 このように、ひとはdisable(無力「無能」にする;〈人を〉身体障害者にする;〈人から〉(…の)能力を奪うなどと使われる)な状態のなかで、人間であるということの条件により深く向き合っている。(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書、2010より)〉

  

「できなくなる」、「失っていく」、「衰えていく」ことで、別の機能が活性化する、感度が鋭くなっていく、これまでの見方が変容するなど、自分のことも含めて多くの人に感じてきた。

 

 館野泉は、ほとんどの人が反対するが、「できるか、できないかは考えない。やりたいか、やりたくないか、やりたいと思ったら もう駆け出している。」と左手だけの演奏をはじめ、新たな可能性を次々と広げている。

 

 心を含めて身体は、老化・疾病・障害などによって大いに影響を受けるが、それによって〈身体〉が衰えていく、ダメージを受けるというのは自分で作り上げた良い状態、あるいはその時代の一般的な基準を前提にしての思い込みであり、〈身体〉は生まれてから何れの時でも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしていて、まさにそれが生命活動である。

 

 人は精神的に明るい積極的な状態であれば、どんな時でも病気や衰えを生きているわけではなく、たった一度のその人「今」の人生を生きている。〈身体〉はいつでも、より良く生きようと活動しているわけで、制約をかけているのは前提にとらわれている観念ではないだろうか。 

 

 鷲田清一は上記の書で次のようにも述べている。

〈できないことを「できる」ことの埋め合わせる欠如と考えるのではなく、「できない」ことそのことの意味を考え、そこからあえて言えば、「できなくなることができるようになる」というか、必ずしも「できる」ことをめざさない、そういう生のあり方をこそ考えねばならないであろう。ノーマライゼーション(ノーマル化)でなはく、ノーマル(普通・正常)という規範的な概念そのものを、限られた概念として相対化してゆくときに、批判的にもはたらく視点としてである。〉

 

【参照資料】

〇舘野泉『命の響』(集英社刊)新刊JPインタビューから

聞き手: 左手一本になってからご自身の音楽観が変わったという記述が見られました。人は得てして、「新しいことへの挑戦」よりも「失うことの恐怖」や「失ってしまったものへの執着」が勝ってしまうものですが、舘野さんの文章を読んで、一歩を踏み出し、妥協せずに進んでいく大切さに気づきました。

 舘野さんは右半身不随だということを聞いてから、失うことの恐怖などをどのように受け止め、消化していったのですか?

 

舘野:右手の自由を失ってから長いこと、僕は、ピアノというのは両手で弾くものだという思い込みにとらわれていました。でも、第1次世界大戦で右手を失ったピアニストのために書かれたある曲との出会いをきっかけに、左手一本でも十分にして十全な表現ができることに気づかされます。それからは、左手の世界を究めていくことが面白くてしょうがないんですよ。左手だけで不自由だとも、また両手で弾けるようになりたいとも、まったく思いません。ピアノが弾けるという、ただそれだけで幸せで、生きる喜びが溢れてくる……。

 そう思えるようになったのは、音楽に対する飢えのすさまじさをいやというほど体験したからでしょうね。脳溢血で倒れてから左手の音楽の豊かさに気づくまで、1年3カ月の間、ひもじくてひもじくてたまりませんでした。あのとき味わった、魂を苛まれるような飢餓感が、今も僕を突き動かし、新しいことに挑戦する意欲をかき立てている気がします。

 それに、よく「膨大なレパートリーを一瞬にして失ってしまい、さぞや悔しいでしょうね」と聞かれるけれど、弾けなくなった曲たちも消えてしまったわけじゃない。僕の中に蓄積され、左手の曲を弾くための土台となり、今の僕を支えてくれているんですよ。

 

聞き手:左手一本で見つけた「音楽の本質」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?

 

舘野:左手だけで演奏するようになって、「両手でピアノを弾いていた60年間、僕は自分の左手をなんて粗末に扱っていたんだろう」と思いました。その気になれば左手は、それこそ両手でもできないことを見事にやってのける力を秘めていたんですから。

 たとえば、カッチーニの『アヴェ・マリア』という曲は、一本の手で一音一音と対話するように丁寧に音をたぐりよせていったら、初めはただの音符に過ぎなかった音が歌い始めました。波がたゆたうような、独特のうねりが生まれた……。コンサートのアンコールで、よくこの曲を弾きますが、日本でも海外でも、涙を流す方が多いですよ。

 音楽をするのに、手が一本だろうと二本だろうと関係ありません。大事なのは、何を表現するか、聴く人に何を伝えられるか。右手が動かなくても、思考や感覚は自由に羽ばたきます。右手の自由を失ったことで逆に、一音一音の大切さ、一つ一つの音にどれほど深い思いと幅広い表現を込められるかがわかってきました。両手で弾いていたとき以上に、音楽に直に触れられていると、日々感じています。

(舘野泉『命の響』―左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉(集英社刊)

 

◎倉本聰『昭和からの遺言』1・2(足裏の記憶)を読んで

〇友人に紹介されて倉本聰『昭和からの遺言』1・2(足裏の記憶)を読んだ。

 倉本聰が昭和の時代を、自らの体験と独特の切り口でふりかえる。NPO法人富良野自然塾の機関紙『季刊・カムイミンタラ』連載をもとに書籍化したもの。

 

 1冊目、2冊目をとおして、「戦後僅かに70年の間に体を使うこと俺たちは忘れた」との趣意で、便利、文明のもとに、必要以上の物にあふれ、時間に追われていく今の時代、人として生きていくのに、本当に必要なものは何なのか問いかけていく。

 

 1冊目の「あとがきに変えてー深さの記億」は、〈全てがずっと深かった〉との言葉から始まり、中ほどに〈手間をかけることがもしかしたら/深さの正体だったかも知れない/俺たちは生きることに/本当に手間をかけた/一生懸命必死に手間をかけた〉とあり、最後の言葉につながる。

 

〈天を深く見る/雲を深く見る/水を深く見る/風を深く見る/すると緑が深くなる/稲穂の黄色が深くなる/川の流れが深くなる/空の蒼さが深くなる/人との交わりも深くなる

 そして倖せが深く見える/昨日まで不満たらたらだったあらゆるものが/突然深い倖せ色に輝いて見える/それが元々昭和という時代の/俺たち原人の生き方だったのさ〉

 

 1935年生まれの倉本氏とは一回り若い私(1947年生)にも、思い当たることが多々ある内容だ。

 手間をかけたから、いいものが出来るとは必ずしも言えないが、感じる・考える・生きる密度が濃いものになるような気がする。

 「一生懸命必死に手間をかけた」はどのような時代、状況にかかわらず大切にしたいと思う。

 

 ただ、時代というのは刻々と変化していくもので、その時代時代に失われたもの、新たに生まれたものが存在する。あの頃はよかったというふうにはしたくないし、大仰な言いまわしに少し気になるところもあるが、生きていくのに根源的なことが書かれていると思う。

 

 2冊目「足裏の記憶」あとがきの「ないことあること」に次の言葉がある。

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己の体内にあるエネルギーを使うこと/それが生物としての

ヒトの根本の生き方だと/永いこと漠然と考えて来たのに

脳ミソの力が筋力を凌ぎ

汗を出来るだけかかないこと/自分の体内のエネルギーを

出来るだけ使わないで生きていくこと/即ち、サボルということを

そっちの方向を/人々が目指し

それを「便利」と称し始めたとき/昭和。

いやそれ以前の大正明治江戸時代からの日本人の生き方は

根本から大きく様変わりした

無かったものが/どんどん生まれた

便利なものが/どんどん誕生した

代わりに/これまで大事にされてきた

日本の遺産が/どんどん消滅した.

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 これは本書の底流にある考え方の一節だと思う。

 日本の遺産云々はともかく、私には前半の部分に思い当たることがあった。

 

 大きな病気を抱え、老齢化すると、いままで何気なく出来ていたことが出来なくなり、失しなわれることも増えてくる。

 本文のなかでも〈ないということはそれほど怖くない/だが、あったのにそれがなくなったということ/それは結構ヒトには厳しい〉とある。

 

 だが、一人ひとりの生命のエネルギーは柔なものではなく、そんなことで消えるものではない。

 構音障害のリハビリの目的で始めた、誰でもが具えている口を楽器にする口笛が、楽しく奥深いものであることを日々実感している。気が付いていないが、他にも沢山あるだろう。

 

 そして、難病を抱えていようが、それぞれは病気を生きているわけではなく、その人ならではの、たった一度きりの人生を生きている。

 

※『昭和からの遺言』(足裏の記憶)の「あとがき」より

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ないということはそれほど怖くない

だが、あったのにそれがなくなったということ

それは結構ヒトには厳しい

電気がなかったら/今や厳しい

ガスがなかったら/ボクらは困る

石油がなかったら/都市はお手あげだ

水がなかったら/酸素がなくなったら/食い物がなかったら/それこそ大事件だが

水や酸素や食料と同レベルで/ボクらはいつのまにか

車を/ケイタイを/テレビを/パソコンを/必需品として見るようになった

スマホがなかったら生きて行けない/ITがなかったら生きて行けない

コンビニがなかったら生きて行けない/電源がなかったら生きて行けない

情報がなかったら生きて行けない

ボクらはどんどん頼るものを増やし/自縄自縛におちいっていった

そういう社会を便利というのか

それが果たして文明社会なのか

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参照・倉本聰『昭和からの遺言』1・2(足裏の記憶)(双葉社、2015・2019)

 

 

◎一般社団法人『アイズ』に「口笛カフェ」の活動があること

〇19日、高次脳機能障がい支援の『アイズ』の口笛カフェに参加しました。

 前回に続いての2度目の参加です。

 家で練習していて、口笛らしき音が7割ぐらい出てくるようになり、当日は臆面もなく「上を向いて歩こう」に挑戦しましたが、ほとんど音も出なく、アレッおかしいなと思いました。それでも皆さん温かく見守ってくれたようです。

 

 白井いさおさん、京子さんとも初めてお会いしました。

 皆さん気さくな方々ばかりで、口笛は巧みで上手で、感心しながら聴きほれていました。

 

『アイズ』の動きにも共鳴して、構音障害のある自分にとってリハビリも兼ねての「口笛カフェ」の参加でした。

 リハビリテーションの本当の目的は、元通りに戻ることではなく、そのような苦難を抱えたとき、いかにそれと向き合い、自分自身がどう生きていくかを考えるプロセスにあります。

 

 そのような意味合いでも、和気あいあいの気風に満ちた、健常者・障がい者の垣根のない、このような場があることは、とても素晴らしくうれしく思います。

 

 また、自分の体のあちこちがギクシャクしている今、改めて自分の体内にあるエネルギーを駆使することの尊さを思い、自分自身の口を楽器として使うことの面白さを、練習しながら日々実感しています。

 

〇一般社団法人『アイズ』に「口笛カフェ」の活動があること

 一般社団法人『アイズ』は、〈障がい者〉と〈健常者〉の垣根をなくす理念のもとに、高次脳機能障害支援をはじめ、どのような人も楽しく生き生きとした暮らしの実現を共に考える活動です。

 

・高次脳機能障害及び障害を持ってしまった方やそのご家族の生活相談カウンセリング。

・高次脳機能障害の啓蒙活動、講演活動

・口笛ライブ・口笛カフェ(サークル)活動などがあります。

 

『アイズ』の大きな特質として「障がい者と健常者が一つにつながるプロジェクト」活動に重点をおいていることがあります。

【『アイズ』はワクワク・ドキドキをみんなで考えます!

たとえば口笛コンサート・料理教室……

それぞれの<足りない>部分を一緒に考えてやってみて、そしてみんなに伝える。

そうでしょう、あなたもそんなワクワクやドキドキすることを

<アイズ>と一緒にはじめてみませんか?】

 

 往々にしてこのような支援団体は、その病状に関係した人、関心のある人で構成されることが多いです。

 

 福祉活動の中で、自死遺族には自死遺族。アルコール依存症の人を抱えた家族には、同様の苦しみを抱えている家族、引きこもりの子どもを持った親には、同じような困難を抱えている親などなど、一緒に支援グループを作っていることが多いです。仔細に見ていけば一人ひとりは違っていても、共感して話を聞いたり、安心してともに考えたりできることがあります。

 

 嬉しいこと、楽しいことだけではなく、悲しいこと、困ったこと、苦しいことも共に分かち合える人に包まれているのは、人が前向きに生きていくときに、大きなことだと思っています。

 

 だが、難病を抱えていようが、それぞれは病気を生きているわけではなく、一人ひとりのたった一度きりの人生を生きています。

 また、「病」というのは特殊であろうと、誰にでもなる可能性があり、高次脳機能障害もしかりです。

 

〈障がい者〉と〈健常者〉の垣根をなくす理念は「口笛カフェ」によく現れていると思います。

 

 口笛の楽しさ、奥深さを感じながら、口笛に関心を寄せている皆さんの演奏をしみじみと聴かせてもらったり、緊張しつつ自分の体内にある力を駆使し皆さんの前で吹いたりするのは、面白いです。

◎阪神淡路大震災から25年がたち、思うこと。

〇先日阪神芦屋駅の踏切で高齢と見える男の人が転んだ。丁度信号が鳴り出し、遮断機が下りるところだった。すぐに線路の外に這い出してきたが倒れたままだった。丁度眼の前でみたので、ハットしたが、自分の体は動かなかったというか動こうとしなかった。

 その人はなかなか起き上がれなかったが、幸い別の人が抱き起した。足をひきずりながら帰っていったところを見ると、体の不自由なお年寄りのようであった。

 阪神淡路大震災に限らず、近来の豪雨や台風などの災害が起こったとき、高齢者、重病者、障碍者など弱者はより一層の困難を抱えることになるおそれがある。

 私の場合も、自分が逃げる、避けるなどに精一杯で、他を助ける、救うことに体が動かないような気がする。むろん、妻へどの程度気をかけるのかを含め、そのときにならなければわからないことだが。

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 阪神淡路大震災から25年がたち、震災を知らない世代が増え風化が進む中、記憶・教訓を継承する取り組みの重要性を考える報道が多かった。

 今年は「震災障害者」との言葉が特に気をひいた。「震災障害者」とは、震災によって障害を負い体が不自由になった人たちのことだ。

 6434人が亡くなった阪神淡路大震災では、一万人以上の人が重傷を負ったといわれている。

 

 2007年、発災当時から阪神淡路大震災の被災者を支援し続けてきたN神戸市のPO法人「よろず相談室」は次のように述べている。

〈◇なぜ震災障害者か

1.震災によって障害者になること

 震災障害者の特異性(平常時に障害を負う場合との違い)は、障害を負った人を支える環境が震災によって壊れてしまうという点にあります。つまり、本人の障害の問題だけでなく、家族や住まい、地域の繋がり、いちどに何もかもが奪われるのです。重いクラッシュ症候群になったAさんの一家は、自宅が全焼、3人の子どものうち2人が亡くなり、夫は職を失いました。片足を切断したBさんの一家は、自宅が全壊、2人の子どものうち1人が亡くなりました。既存の障害者施策では到底救われない苦境に陥るのです。

 このような状況に直面し、復興していく社会から置き去りにされたと感じた人も多かったと聞きます。前向きに生きる気力を失った人もいました。毎日新聞の調査によると、震災障害者とその家族の4割が自殺を考えたと回答しています。

2.震災後の社会の眼差し

 ところが、このような震災障害者の苦しみは、なかなか理解されませんでした。震災が起き、多くの人が犠牲になる状況では、「障害が残っても、生きているだけましなのでは」という見方をされがちです。けれども、「いのちの次に大切なのは身体のはず。なのに、震災で障害を負った人を誰も見ようとしなかった」(ある震災障害者の家族のことば)のです。

 また、行政の方針も、「震災障害者を特別に扱う必要はなく、既存の障害者施策で充分」というもので、長いあいだ、震災障害者の実態調査すら行われず、相談窓口もありませんでした。

3.ようやくできた集いの場

 そんななか、よろず相談室は、後遺症を抱える男性のひと言をきっかけに、「震災障害者と家族の集い」を始めました。〉

 ※npo-yorozu.com/?page_id=725

 

〇一人ひとりに寄り添って

 17日、NHKスペシャル『阪神・淡路大震災25年▽あの日から25年大震災の子どもたち』を見る。

 番組案内は次のようになっている。

〈阪神・淡路大震災から四半世紀、25年の歳月が過ぎた。この節目の年に私たちは、社会心理の専門家とタッグを組み、これまで前例のない大規模調査を行った。

 対象は震災当時、小・中学生(6~15歳)だった子ども、いわゆる“震災の子”だ。現在31~40歳となった5000人に、震災が「その後の生き方」や「進路」などにどのような影響を与えたか聞いた。集計・分析が進む中で、専門家も驚く結果が明らかに。「家族を亡くした」「自宅が全壊」など、被災程度が高い人の6割近くが「今では震災体験を前向きに捉えている」と答える一方で、「今も思い出したくない」「触れて欲しくない」と答える人が2割近くに上った。いわゆる「二極化」が起きていたのだ。さらに、被災程度が高い人ほど「町への愛着を感じる」傾向があることも分かった。こうした結果はなぜ生まれたのか。「二極化」の分岐点はどこにあったのか。分析・取材を進めると「先生」や「近所の大人」など家族以外の「周囲の大人」の存在がカギとして浮かび上がってきた。

 25年が経った今、初めて明らかになる“震災の子”の真実。神戸から全国の被災地へ新たな教訓を伝える。〉

 

 この番組に、具体的な3人の方の経緯を追いながら、全体像とグラフを混ぜながら交差させていたのが印象に残った。

 大きな災害が起こると、往々にして、当事者の声以上に災害の内容や背景についての論説が多くなる。一人ひとり状況は大きく違うだろうし、25年の歳月は、なおさらと思う。

 

 V・フランクルに次の言葉がある。〈「医者が見ているのは、いつだって人間ではなく、「ケース」なのです。「この人」ではなく、「これは」なのです。」〉

 

 これは少なからずの医者に限らず、専門家などといわれる人の、おちいりやすい面でもある。

 なにごとも、一人ひとりに寄り添って、その上で全体の状況、背景、傾向などに目配りをしていくことが大事ではないだろうか。  

◎ユーモアの精神で「老い」「病」を生きる(天野忠の詩集から)

〇内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』のなかの小編「あなたなしでは生きてゆけない」から、自分にとって「かけがいのない人」について考えてみた。まず浮かぶのは妻である。面と向かってはいわないが、心の底にはあるだろう。

 70歳を過ぎた私たちや高齢年代の友人夫婦を見ていて、しばしば老夫婦のあり方を考えるようになる。生まれも育った環境も異なる同士が、何らかの機縁で共に暮らすようになり、長年の間にはお互いの長所・短所、いいところ・気になるところも見え見えで、認知の衰えや大病などにより、どちらかに相当の負担がかかってきたときにどのようになっていくのだろうと思う。世間では高齢者離婚も少なからずあるようだ。

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〇わたしにとって「ああーいいな!」と思う老いの姿を巧みに描いた詩人に天野忠がいる。身の回りを鋭く観察して生まれた親しみやすい諧謔に満ちた作品が多く、澄んだ視線で老いをとらえる。老夫婦として生きる喜びとユーモアの精神がクッキリと浮かんでくる。

「老い」や「病」を考えるときに天野忠のような視線は大事にしたいと思う。

 いくつか挙げてみる。

 

・「覚悟」

真剣勝負せねばならんとしだなあ

この世の瀬戸際まできたんだから。

つくづく、じいさんはそう思う。

しかし

その真剣が見つからん・・・・

誰と勝負だって?

ばあさんが台所でひょいと顔をあげる。

昨日年金を貰ったので

今夜は久しぶりにうなぎである。

特上のその次のを

エイッと張りこんだ。

誰と勝負するのか

じいさんはまだ思案している。  

(天野忠『長い夜の牧歌 ー老いについての50片』書肆山田、1987より)

 

・「老衰」天野忠

十二月二十八日正午一寸前。

生まれて初めて へた、

へた、へた、と 私は大地にへたばった。

両手をついて 

足の膝から下が消えて行くのを見た。

七十八歳の年の暮れ。

スキップして遊んでいる子供がチラとこちらを見た。

走って行った家から人が出てきて

大地にしがみついている私を 抱き起こした。

「どうしました」 

冷静に 

私は答えた。

「足が逃げました」

(天野忠遺稿詩集『うぐいすの練習』編集工房ノアより)

 

 

・「しずかな夫婦」

結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。

とくにしずかな夫婦が好きだった。

結婚をひとまたぎして直ぐ

しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。

 おせっかいで心のあたたかな人がいて

 私に結婚しろといった。

キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて

ある日突然やってきた。

昼めし代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き

昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。

 下宿の鼻垂れ小僧が窓から顔を出し

 お見合だ お見合だ とはやして逃げた。

それから遠い電車道まで

初めての娘と私は ふわふわと歩いた。

 ――ニシンそばでもたべませんか と私は云った。

 ――ニシンはきらいです と娘は答えた。

そして私たちは結婚した。

おお そしていちばん感動したのは

いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ

ポッと電灯の点いていることだった――

戦争がはじまっていた。

祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩

子供がうまれた。

次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ

徴用にとられた。便所で泣いた。

子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。

ひもじさで口喧嘩も出来ず

女房はいびきをたててねた。

戦争は終った。

転々と職業をかえた

ひもじさはつづいた。貯金はつかい果した。

いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。

貧乏と病気は律義な奴で

年中私たちにへばりついてきた。

にもかかわらず

貧乏と病気が仲良く手助けして

私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。

子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)

思い思いに デモクラチックに

遠くへ行ってしまった。

どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって

夫婦はやっとやっともとの二人になった。

三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。

 ――久しぶりに街へ出て と私は云った。

   ニシンソバでも喰ってこようか。

 ――ニシンは嫌いです。と

   私の古い女房は答えた。

(天野忠詩集『昨日の眺め』(1969年10月刊行)より)

 

参照・安心感と信頼感に支えられる(2015-03-17)

・「あなたなしでは生きてゆけない」(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)(2019-01-11)

◎魂の奥底から思うこと(岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』を読んで。②)

※同日の【貧しい発想(岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』を読んで。①)】に続いての投稿記事。

 

〇2015年5月、6月と読売新聞のヨミドクターの岩永直子さんから5回に亘って編集長インタビューを受けて、その記録が、読売新聞・「yomiDr」に掲載された。

 本文の詩とともにいくつか編集してみた。

 なお、編集長インタビューは次のようになっている。

岩崎航さん(1)「暗闇の灯火 それは五行歌」(5月29日)

岩崎航さん(2)「『病魔』と闘う 医学の力と生活を支える力」(6月8日)

岩崎航さん(3)「祈りと芸術 魂の奥底から思うこと」(6月15日)

岩崎航さん(4)「震災 言葉を見失い、言葉に救われる」(6月22日)

岩崎航さん(5)「人生の胎動 人との関わりが広げる世界」(6月29日)

 

 岩崎航のエッセイ「生き抜くという旗印」の後半部は次の言葉となっている。

〈でも、それができていた子どもの頃に戻りたいとは思わない。多く失ったこともあるけれど、今のほうが断然いい。

 大人になった今、悩みは増えたし深くもなった。生きることが辛いときも多い。

 でも、「今」を人間らしく生きている自分が好きだ。

 絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

 

 授かった大切な命を、最後まで生き抜く。

 そのなかで間断なく起こってくる悩みと闘いながら生き続けていく。

 生きることは本来、うれしいことだ、たのしいことだ、こころ温かくつながっていくことだと、そう信じている。

 闘い続けるのは、まさに「今」を人間らしく生きるためだ。

 

 生きぬくという旗印は、一人一人が持っている。

 僕は、僕のこの旗をなびかせていく。〉

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(1)「暗闇の灯火 それは五行歌」

 筋肉が徐々に衰える難病「筋ジストロフィー」を3歳で発症し、人工呼吸器や身の回りすべての介助なしでは生きられない詩人、岩崎航さん(39)。詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社 写真・齋藤陽道)に収められた五行歌は、生きる喜びと生き抜く覚悟を歌い、読む者に力を与えてくれる。「多く失ったこともあるけれど、今の方が断然いい。絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った『今』が、自分にとって一番の時だ」と書く岩崎さん。命や医療について考えるインタビュー連載は、この人から始めたい。(岩永直子)

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自分の力で

見いだした

ことのみが

本当の暗闇の

灯火(ともしび)となる

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「創作を始めたことで、ゆっくりと心が動き出してきました。心が動き出す中で、人と関わって生きたいという気持ちも強まり、実際の行動にも結びついていったのではないかと思います」

 本名が「稔・みのる」の岩崎さんは、「航・わたる」というペンネームを決めた。

「航海の航、航空の航。サン=テグジュペリの書いた『夜間飛行』を読んで感動があったからです。闇のような、真っ暗で何も見えない中、たどり着く灯台のような灯りも、帰り着く先もわからなくなってしまう状況もある。そういうことが書いてあって、ほとんど自分の人生と一緒だと思ったんですね。迷ってしまって、光も見えない時もあるけれども、それでもやっぱり飛び続けていく、生き続けていく。だから航。人生の大海原も、山坂も渡っていく。自分の人生を渡りきっていこうという思いを込めました」

 

(2)「『病魔』と闘う 医学の力と生活を支える力」

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本当に

「治る」とは

何なのか

一生を懸けて

掴み取る

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 筋ジストロフィーやALS(筋萎縮性側索硬化症)など、進行性の難病を抱えると、人工呼吸器や胃ろうを着けるべきか悩む患者もいる。

「この状態で生かされて、本当にこの人のためになっているのかと、自問せずにはいられない極限的な状況があること。それは自分なりに無視していないつもりです。その問いは、ある意味で周りの支援する人たちの真摯さの表れでもあると思います。そして、当事者も、周りに迷惑をかけてしまうのではないかという思いから、こうした医療や介護の助けを借りることにためらいを感じてしまうことがあるのも事実です。ただ、色々と困難な状況はあると思うんですけれども、『点滴着けてまで』とか、『呼吸器を着けてまで』と言う前に、一人の人間が前向きに生きる力を失うことのないように、もう少しできることはないのかと言いたいんです」

 

(3)「祈りと芸術 魂の奥底から思うこと」

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何にも言わずに

さすってくれた

祈りを込めて

さすってくれた

決して、忘れない

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「私のような病気を持つ患者は、どうしても家族に負担をかけるのは申し訳ないという気持ちがあり、こうした患者の生活を支えるための医療や介護などの社会資源や、生活の質を上げる機器などの情報は十分行き渡っていない。そうすると、患者は、生き続けるための機器や人工栄養を使いたくても言えなくなってしまう可能性があります。また、『終末期』をどこに置くかは、個人の生命観に左右されると思いますが、社会全体に、『動けなくなったら、ものを食べられなくなったら、生きていても仕方ない』と思い込む傾向が、無意識のうちにもあると思います。医師の中にもそういう人はいるでしょう。そうした人たちは、まだできることがあるのに、『終末期』を早めてしまわないかという懸念が拭えません。終末期の苦痛を減らしたいという気持ちは理解できますが、現状で、そんな法案が通過したり、社会通念が広まってしまったりすれば、生きたいのに生きられない人を増やすことになるのではないかと恐ろしさを感じます」

 

(4)「震災 言葉を見失い、言葉に救われる」

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もう言葉がない・・・

まして歌など出てこない

なぜできる?

なぜできようか!

心がこわばり動かない

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(東日本大震災)は病を抱えた自分だけでなく、誰もが先の見えない大変な状況に陥った緊急事態。岩崎さんの心は、閉じていった。

「家族を含めて周りは皆、奔走するのに、自分は動けない。本当は自分も動きたいけれども、何もすることができないというのは、すごくつらいことだったんですね。それはやっぱり僕の中で今までにない経験。今まで、これほどの状況に追い込まれたことはなかったですね。自分は守られるばかり、助けてもらうばかりで、周りの人は奔走して、疲れていく。自分がこんなにも周りを疲労困憊させている。周りの人はそういうふうには思っていないんですけれども、私の心情として、周りが疲労困憊していく姿を見ることしかできない、本当に自分の存在はなんなんだという考えに傾いていきそうになる。それは今思うと、悪循環だと思うんです。答えはないし、そういうつらさは、震災に遭ったことで、改めて強烈に突きつけられたことなんです」

 

(5)「人生の胎動 人との関わりが広げる世界」

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関わりの海

そこで生きるが

全てなのだと思えてきたら

何だか人に

会いたくなった

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 岩崎さんの世界を広げてくれた人との関わり。それは、自身が勇気を出して踏み出した、一歩から始まった。

「人との関わりの海の中で生きるというのは、私がつかんだ実感なんです。詩を書こうと決めたことも、在宅医療や訪問介護を受け始めたこともそうですが、自分から人と関わっていこうと決めた、そういうふうに一歩踏み出したことから、色々な人と出会うし、色々なことにつながっていく。こうした病気や障害という環境にいると、どうしても家族やごく限られた人としか会わなくなっていきがちで、人間関係が広がらなくなってくるんですね。だけど、そのままずっと続けていたら、自分の中でやっぱり、こうしてはいられないという思いが強くなったんです。介助もかつては家族に全面的にやってもらっていたんですけれども、家族だって年を重ねるし、それでは先がない。そういうふうに考えたのも、25歳で創作を始めたのと同時期なんです。自分にできることの模索と同時に、人と関わっていこうと決め、自分なりに努力したんです」

 

「これからもつらいことはあるでしょうし、私は主に病気がつらい状況を生むのですが、病気以外にも色々手も足も出ないようなことは、生きていれば必ずあると思うんです。色々大変な世の中ですけれども、それでも、生き抜くという旗印は、皆それぞれ持っている。僕は僕の生き抜くという旗印を掲げて、生きていこうと思っています」

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◎貧しい発想(岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』を読んで。①)

※この記事のもとは、2016年1月6日に発表した【岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』を読んで。】である。そこに今の時点で考えたことなどを付け加え、読売新聞のヨミドクターの岩永直子さんとのインタビューの発言を編集した。2回に分けて述べる。

 

 〇津久井やまゆり園」事件については、少なからずの人が、植松被告は経済的に役に立つかどうか、生産性があるかないかで、人を判断する一部の社会風潮が作り出した病だと指摘している。さらに、「内なる優生思想」に向き合う考えさせる論考もいくつかある。

 

 この項では岩崎航の詩「貧しい発想」に触発された私的な戸惑いについて述べる。

 ・岩崎航の詩「貧しい発想」

管をつけてまで

寝たきりになってまで

そこまでして生きていても  しかたないだろ?

という貧しい発想を押しつけるのは

やめてくれないか

管をつけると

寝たきりになると

生きているのがすまないような

世の中こそが

重い病に罹っている

(岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』)詩・エッセイ 岩崎航 写真 齋藤陽道 ナナクロ社。2013より)

 

 ここに来て、動くための基本的な歩くことが不如意になり、何か人と一緒に行動するとき、「足手まといにならないように」と意識がのぼるようになる。まだチラッと思う程度だが。

 

 私が90歳超えた義父と一緒に住みはじめた頃、義父は遠慮するようなものがあり、しばらく続いた。始めの頃、義父は、私に介助されるような場面では、必ず「すまないなー」と付け加えていたが、徐々にそれも言わなくなっていた。

 

 その頃から、いろいろ考えることが好きで、「こんなに歳とるのは初めての経験だからどう考えたらいいのか」などと、よく話をするようになっていた。その時分は寝たきりになっていて、意識はしっかりしていたが、「長生きし過ぎた」と、もらすことも度々あった。  

 

 私が重度心身障害者など対象の仕事をしていたこともあり、寝たきりの人のことなども話題に上るようになっていた。あるとき義父から、「よくそんなんで生きていられるんだな」というようなことを言われて、戸惑ったことがある。

 

 一時、徐々に少なくなっていたとはいえ、食事の量が極端に減ったことがあり、妻と「おかしいねー」と話を交わしたことがある。やがて、少量ではあるが元通りになっていった。できる限り好きなものを用意し、義父が「美味しいなー」というのは、妻の一つのやりがいになっていて、これについては死の間際まで続いたのではないかと思っている。だが、我慢強い義父の中では、実際のところ晩年どういう気持ちでいたのだろうか。

 

 私の中に、その貧しい発想法がクリアできているかどうかを見ていくと、活動先では、そのような思い方はなかったと思っているが、気にかかっているのは、母についてである。

 

 母は90歳過ぎてから、心身がかなり衰弱していて、実際によく接している兄や妹などには、見るに忍びないことも度々あったそうだ。母からは、「早くお父さんのところに行きたい」と、訪問したときに何度か聞いている。

 

 訪問するたびに、私にもその大変さが伝わってきて、いたたまれないような気持ちが増していった。母の死亡の連絡がきたときには、悲しい気持ちはあったが涙も出ないし、ある種、安堵するようなものもあった。(この辺りは何んとも表現できない)

 

 これはどういうことだったのだろうか、私が母のような状況になった時はどうなんだろうか。

「押しつけ」というのは、他からある以上に、自分の中にあるものだと思うので。

 

 貧しい発想法は、結局のところ、自分自身をも縛ることになり、押しつけることになるのではないだろうか。

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○岩崎航詩集『点滴ポール ~生き抜くという旗印』から

「五行詩」

嗚呼 僕も

生きているんだ

青空の

真っただ中に

溶け込んでいる

——–

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚

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どんな

微細な光をも

捉える

眼(まなこ)を養うための

くらやみ

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※岩崎 航:1976年、仙台市生まれ。本名は岩崎稔。3歳で発症、翌年進行性筋ジストロフィーと診断される。現在は胃ろうと人工呼吸器を使用し、仙台市内の自宅で両親と暮らす。2004年秋から、五行歌形式での詩作を始め、06年、『五行歌集 青の航』を自主制作。13年、『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)を全国出版する。

◎認知症になることは、不便だけども、不幸じゃない

○NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」を見る。

 認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)が、自らも認知症であることを公表した。その姿を一年余に渡って記録したもの。

 

 長谷川先生が開発した認知症スケールは亡くなった義母の診断に使われていて関心を持ったことがある。

 

〝君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する″ かつての先輩医師の言葉を胸に、長谷川さん自身の姿を撮ってもらうことで、認知症がどういうものかを伝えたいという、認知症専門医・研究者としての矜持と時間の経過とともに症状が劣化していく様子がある程度記録されていたと思う。長谷川先生の表情も生き生きしていたような気がする。

 奥さんの瑞子さんと娘のまりさんの葛藤もありながらも献身的な付き添いも印象に残った。

 

〈認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。カメラには、当事者としての不安、家族の葛藤。その一方、専門医ならではの初めての気づきも記録されている。認知症になったら、不確かな状態がずっと続くと思っていたが、正常な状態も確かに存在するということ。言葉が分からくなって話せないのではなく、「自分の言葉」に自信がなくなり、殻に閉じこもってしまうということ。確かさを取り戻すためには、他者との絆が重要であることなどが記録されていた。〉(番組案内文より)

 

 認知症を生きるのは「こんなに大変だとは思わなかった」といいつつも、「認知症になっても見える景色は変わらない。」ともいう。

 

 特に、自ら提唱したデイサービスに関してのことに、いろいろ考えさせるものがあった。

 私もそれに近い仕事をしていたし、また身内の体験を見ていて、自分がそのようになったとき、果たしてこういう感じでやれるかなと思っていた。

 

 長谷川先生は、デイサービスに行ってみて「家族や周囲の負担を軽減できると思ったが、本人の希望にマッチしているかどうか」と語っている。

  また、デイサービスに行くのをやめたいと言い出し、でもそうすれば家族の負担が大きくなることもわかっているので、娘さんに「僕が死んだら家族はほっとするだろう」といって「そんなことないよ」と娘さんにたしなめられる場面もある。

 

 奥さんや娘さんの負担を考えて、老人ホームの体験宿泊に行ってみて「うちへ帰りたい」といい、ご自分の仕事部屋に帰りたい、「あそこが僕の戦場。そこで僕は戦うんだ」とおっしゃるくだりは共感するものがあった。

 

 それにしても、先生の奥様と娘さんの献身的な向き合い方は印象に残る。奥さんはチャイコフスキーの「悲愴」が好きという先生のためにピアノを弾き、飲む薬の管理をし、講演に行くときにはつき添い、日常生活全体を支えている奥様がいて、娘さんがいる。先生から「瑞子に感謝」ということばが出てくる。

 

 そして次のことも思う。日本の「介護」問題が個々の家庭内で対応するのではなく、社会的に相互扶助の精神で対処するという目的で介護保険制度ができたけれど、結局家族やそれに近い仕組などの手厚い支援がないと、このようなケースは生まれにくいのではないだろうか。 

 

 なお、認知症といっても一人ひとり違いがあり類型化できないが、今のところ脳の萎縮は超高齢化社会において誰にでもついてまわるもので、誰もが認知症になりうる時代、このような記録はありがたい。

 

 長谷川さんは「自分が壊れていくことを自覚できなくなっていく」という感覚を自覚しておられる。

 症状は違うが、次第に自分も身近な人の強い支えがなければ暮らしていけなくなるおそれもあり、いろいろな心構えの参考になるように思った。

 

参照:2018年3月16日に、長谷川和夫さんが聞き手・及川綾子さんに語った記事が朝日新聞DIGITALに掲載されている。一部抜粋する。

〇【認知症になった認知症専門医 「なぜ私が」患者の問いに】有料会員限定記事

〈かつて、「痴呆」と呼ばれて偏見が強かった認知症と、私たちはどう向き合えばいいのか。長谷川和夫さんは半世紀にわたり、専門医として診断の普及などに努めながら、「認知症になっても心は生きている」と、安心して暮らせる社会をめざしてきた。89歳の今、自身もその一人だと公表し、老いという旅路を歩んでいる。

 

 ――自身の認知症を疑ったきっかけは、どんなことでしたか。

 「これはおかしい、と気づいたのは1年くらい前かな。自分が体験したことに、確かさがなくなった。たとえば、散歩に出かけ、『かぎを閉め忘れたんじゃないか』と、いっぺん確かめに戻る。確かに大丈夫だ。普通はそれでおしまい。でも、その確認したことがはっきりしない。そして、また戻ることもあって」

 ――昨年11月に病院に行き、診断を受けたそうですね。

 「弟子が院長をしている専門病院に、家内と行ったんだ。MRIや心理テストを受けたら『嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性認知症』っていう診断がついた。物忘れ以上のものを自覚していたから、あー、やっぱり、と。戸惑いはなかった」

 ――初めて聞く名前です。

 「このタイプは物忘れや頑固になるといった症状が出るが、進行は遅い。昔より多少イライラする頻度が増えたかな」

 「認知症になるリスクは、年を重ねるごとに高まる。長寿化に伴って、僕のように80歳、90歳を過ぎてからなる人は増えていく。これを『晩発性認知症』という、一つのカテゴリーだと唱えている。100歳でも全然ならないピカピカの人もいると思うんだ。それはエリートだな、ごくわずかの」

 ――公表することに、ためらいや迷いはなかったですか。

 「いやいや。僕が専門医であることは知られていて、その僕が告白して講演などで体験を伝えれば、普通に生活しているとわかってもらえる。認知症は暮らしの障害で、暮らしがうまくいくかどうかがいちばん大事。僕の話から多くの人が理解してくれれば、認知症の人の環境にもプラスになる」

 ――今は、1日をどのように過ごしていますか。

 「朝6時半ごろに起きて、朝昼晩の食事。その間に散歩したり、図書館や近所のコーヒー店に行ったりする。今日が何月何日なのか、時間がどれくらい経過したかがはっきりしないけれど、不便だと感じることはあまりない。夫婦2人だけの生活で、やるべきことは毎日ほぼ同じだからね」

 ――医師として働いていたときには思いもしなかった発見は、何かありますか。

 「『デイサービスに行った方がいいですよ』と患者さんに言っていたのに、今度は自分が行くことになった。昨年6月に転んで骨折してから週1回通っているが、学ぶことが多いね。午前中に入浴があって、スタッフが体を洗ってお風呂に入れてくれる。いかにスタッフが訓練を受けて、一人ひとりの利用者の情報を持っているかがケアでは大事なのか、その言葉やしぐさからわかる。自分の体を通して、勉強している」

――振り返って、患者さんに「ああしておけば良かった」という思いはありますか。

 「ある男性の診察をひと通り終えたとき、僕に一つ聞きたいと言ってきたことがある。『先生、どうして私は認知症になったんですか。他の人ではなく、どうして私なのでしょうか』。切羽詰まった感じで、何と答えたらいいか、わからなかった。何も答えられなくて、その人の手を握って。目を見つめて、そうだよね、と言った。今はより、彼の気持ちが、あの質問の思いがわかる。それでも同じことしかできないと思う。だって、神様ではないから。答えなんて、わからないよ」

 

 ――現役時代に開発した、九つの質問で測る簡易診断テストの「長谷川式認知症スケール」は、広く臨床の場で用いられてきました。

 「元々は、てんかんの診療をしていたが、1960年代に東京都内の老人ホームの利用者を対象にした健康調査を任され、初めて認知症の人の診断をした。上司から、誰が調べても診断が一致するような『ものさし』をつくりなさい、と言われて考えた」

 ※長谷川式認知症スケール

認知症診断のための簡易スクリーニング検査で、長谷川さんが1974年に発表。91年に改訂された。「今いるところは、どこか」や、少し前に覚えたことを思い出してもらうといった九つの質問に答える。30点満点で20点以下の場合に、認知症の疑いと判断される。この検査だけで認知症の確定診断はできない。

 

 ――誰が検査しても、ほぼ同じような診断結果が出るのが、特徴です。

 「困ったな、と思うこともある。安易に使われすぎて、本人の気持ちを考えずに検査をする医者がいる。質問で『お年はいくつですか』と、のっけから大事な個人情報を聞く。それからいい大人に『100から7を引くと、いくつですか』とも尋ねる。『冗談じゃない、何を言っているんだ』と怒るのは当然でしょう。診察に必要だからと、医者の側が本人と家族に協力をお願いする姿勢が、必要なんだ」

 (以下略)

◎家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。

〇「津久井やまゆり園」事件関連のニュースで次のことが印象に残った。

 2016年7月、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、障害者ら45人が殺傷された事件の裁判員裁判が8日、横浜地裁であった。

 

 初公判を前に7日、事件で亡くなった女性(当時19)の遺族が、女性の名を美帆さんだする手記を発表した。

 

〈「大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました」。母親の手記は、そんな言葉から始まっている。自閉症の娘は、障害者施設「津久井やまゆり園」の事件で命を奪われた。当時19歳だった娘の名前は「美帆」さんという▼ジブリのアニメや、いきものがかりの音楽が好きだった。「言葉はありませんでしたが、人の心をつか…(朝日・天声人語より)」

 

 大きな殺傷事件が起こると、往々にして、被害者、当事者の声以上に事件の内容や背景についての論説が多くなる。

 特にこの事件は、植松聖被告が語った動機「意思疎通できない障害者は不幸しかもたらさない」。との思い込みから事件を起こし、一部そこに同調するような空気もある。

 

 それに対し様々な立場から、被告に直接向き合うことで、事件を乗り越えようとしている人たちが相次いでいる。

 最首悟さんの娘の星子さん(41歳)はダウン症で、重度の知的障害がある。最首さん夫婦は40年にわたって星子さんを自宅で介護してきた。

  氏は、「今社会には社会資本を注いでも見返りのない障害者や寝たきり老人は〝社会の敵”だと見做す風潮がある」と指摘している。

 

 氏と植松被告との対話を含めて、インターネットでその概要が閲覧できる記事がある。

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20180817/index.html

 この記事は、2018年7月21日に放送した 「NHKスペシャル “ともに、生きる” ~障害者殺傷事件 2年の記録~」 を基に制作していて、NHKオンデマンドで配信している。

 

 しかし、いろいろな事情から被害者、その家族からの声があまり表面に出てこない。

 その中で、事件で長男の一矢さん(46)が重傷を負った尾野剛志さん(76)、チキ子さん(78)夫婦は、実名を公表し、その意思を表明してきた。

 

 横浜地裁はこの裁判で、尾野一矢さん以外の被害者を「甲A」「乙B」などと呼び、匿名で審理し、美帆さんは「甲A」とよばれた。

 

 美帆さんのお母さんは次のようにいう。

〈美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います。こわい人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。

 どうして今、名前を公表したかというと、裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです。話を聞いた時にとても違和感を感じました。

 とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることは納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。

 どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした。

 家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。

 この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく社会全体でもこのような悲しい事件が二度とおこらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えて頂きたいと思います。

 障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています。

 障害者が安心して暮らせる社会こそが健常者も幸せな社会だと思います。

 2020年1月8日 19才女性 美帆の母。〉

 

 亡くなられた方、大きな傷を負った方の一人ひとりには、その人ならではの人生があり、物語がある。同時に、その親にも身内にもその子に対するさまざまな思い、物語がある。

  

 そして石原吉郎の次の言葉を思う。

〈ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」

(石原吉郎『望郷と海』「確認されない死のなかでー強制収容所における一人の死」ちくま学芸文庫、1990年より)〉

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 ※最首悟さんと植松聖被告との手紙について

「津久井やまゆり園」事件について、社会が事件を乗り越えるカギを探ろうと、植松被告と直接面会する人も出てきている。

 事件直後から新聞やインターネットで発言を続けてきた社会学者で、和光大学名誉教授の最首悟さんもその一人だ。

 

 最首さんは新聞の論評の中で、植松被告は社会が作り出した病だと指摘していた。経済的に役に立つかどうかだけで人を判断する、行きすぎた合理主義の風潮を感じ取ったからだ。

 今年4月、そんな最首さんのもとに、論評を読んだ植松被告から突然手紙が届いた。そこから交信が始まった。

 

 その手紙は、神奈川新聞「カナコロ」に【〈序列をこえた社会に向けて〉やまゆり園事件 最首悟さんの手紙】に随時掲載されている。

 最首さんは次のようなことを述べている

〈植松青年に向かって、書くとか語るというのをこえていきますね。むしろ、もっと多くの人たちに向かって、答えていくということになるでしょう。重度の寝たきりの障害者とか、認知症老人というのは、意思疎通ができなくなったら、人間としては疑わしくなるんじゃないか。そういう考えは非常に多いと思う。それは違うということは指摘しなきゃいけない。〉

 

 私はこの事件は今の社会風潮を色濃く反映していると考えている。今回の障害者殺傷事件を通して、他人事としてではなく、自分の生き方の問題として考えていきたいと思う。