日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「自己」と「非自己」から「死」に対する心構え

〇さまざま社会現象や知人、友人の近況に触れて、何がおこるのか、いつどうなってしまうのか分からないなということを改めて感じる。特に50歳頃肺気腫で1か月入院し、肺・呼吸系統は弱いので、新型コロナウイルスについて少し気にはなっている。

 

 近年、身近な知人や友人を見送ることが多く、昨年は長年交流していた同年代の友人がたて続けに亡くなり、自分も「死」を思うこともある。といっても差し迫っていると感じているわけでもないし、そこを考えるよりも、今やれること、生きていることをより大事にしたいと思っている。だが「死」に対する心構えは必要だなと考えている。

 

 考え方としては、高村光太郎の詩の中の「死ねば死にきり、自然は水際立ってゐる」という言葉がいいなと思っていた。

「人は死ねば死にきりで個としては存在しなくなるが、大自然に包まれ、その自然はあざやかにきわだっている。」という意だと思っている。

(※高村光太郎の「夏書十題」のなかのひとつ、「死ねば」という表題が付された、亡くなった母を追慕した短詩(原詩は、二行立てで「死ねば死にきり。/自然は水際立つてゐる。」)

 

 最近触れた中で、五木寛之の「死」への考え方・心構えに面白いものを覚えている。

【人はつまるところ「大河の一滴」である。大きな河の流れに身をまかせて、おのずと海へくだってゆくのだ。その流れの上で、ピチピチ跳びはねたり、岩にぶつかったり、深い淵によどんだり、流れに逆らって渦を巻いたり、いろんなことをするが、結局は一滴の水として海に還る。死ぬということは、つまりは大きな生命の海に還ってゆくことだと考えたい。なつかしい海の懐に抱かれてしばしまどろみ、やがて太陽の熱と光をうけて蒸発する。そして雲となり、霧となり、雨となって、ふたたび空から地上へ降りそそぐ。】

 

 そして多田富雄の論や近来の免疫論を踏まえて次のように述べる。

 

【〈落地生根 落葉帰根〉という文句のおもしろさは、〈根に帰る〉という最後の部分ではあるまいか。人は去ってゆくのではない。還るのだ。どこへ? 生命力の流れの根元へ、である。みずからの出発点である非自己へ、命の水源に還るのだと考えたい。自己のふるさとこそ非自己ではないのか。老化を自己が崩壊してゆく過程、ととらえる見方もあるだろう。しかし免疫の混乱を自己の秩序の崩壊と考えるより、非自己へ帰るための解体作業と受けとめる立場はないものだろうか。】

(※五木寛之・斎藤 慎爾(著)『漂泊者のノート―思うことと生きること』より)

 

 多田富雄は『免疫・「自己」と「非自己」の科学』で次のように述べる。

【〈近代の免疫学は、免疫系とは、もともと「自己」と「非自己」を画然と区別し「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達したシステムと想定してきた。そんなに厳格に「自己」を「非自己」から峻別している事実があるとすれば、その判断の基準は何か。そして免疫系が守ろうとしている「自己」とはそもそも何なのか。というのが免疫学の問題の立て方だった。(中略)

 ところが、〈「自己」は「非自己」から隔絶された堅固な実体ではなく、ファジー(あいまいなさま)なものであることが分かってきた。それでも一応ウイルスや細菌の感染から当面「自己」を守ることができるのは、むしろ奇跡に近い。

 免疫学はいま、ファジ―な「自己」を相手にしている。ファジ―な「自己」の行動様式は、しかし、堅固な「自己」よりはるかに面白い。】

 

 多田富雄をはじめ、現在の免疫論の考えかたは、真の〈自己〉は〈非自己〉の延長線上にあり、その〈非自己〉との関係のしかたによって、〈自己〉が成り立つ、内なる〈非自己〉の存在なくして〈自己〉はありえないとする。

「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達してきたとされる免疫機能だが、実はその「自己」があいまいで、「非自己」との境界は後天的にシステム自体が作っていくものであり、自己免疫症のように自己を攻撃したり、癌やアレルギーのように過剰に非自己を攻撃したりするあいまいさを有している。

 免疫機能に限らず、自分のからだは、現実には私の意のままにならないことからも、意識でとらえた精神的な自己、人格的な自己も、つきつめて考えていくとあいまいなものではないのか。

 

 自己の体内を見ても、ミトコンドリアをはじめ腸内細菌など「非自己」なるものと共存し、他の生命をいただくことで生きながらえてきて、もっと大きな宇宙・自然界のさまざまな現象の影響を受け、育まれてきて、そこでいろいろな人と出会い、たくさんのことを味わい、やがて死んでいく。

 

 朝眠りから覚めると、当然のように私は私であると思っている。認知症など極度の老化が進むと、いずれそれすらもおぼつかないことになるかもしれない。

 いずれにしても、やがて来るだろう死の間際になったときにおだやかな気持ちでいたいと願っている。

 

参照:多田富雄『免疫の意味論』(青土社、1993年)、『免疫・「自己」と「非自己」の科学』(NHK出版、2001年)

・五木寛之・斎藤 慎爾(著)『漂泊者のノート―思うことと生きること』(法研、2002)