日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ユートピア主義と近代科学(中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』から)②

※中島岳志は、「自力と他力のユートピア主義の間で揺れる近代」で色合いの違う戦前の二つのユートピア主義を取り上げる。

 

 ひとつは、日蓮主義系の超国家主義者のように、社会を宗教的・合理的に設計すれば、理想的な社会が実現できるとする設計主義的なユートピア思想。自力的ともいえる。

 

 もうひとつは、神々と人々が一体化することで、理想社会はおのずと成立すると考えるユートピア主義。親鸞主義の三井甲之、蓑田胸喜が典型で、天皇の大御心と自分たちを一体化すれば、ユートピアは現前すると考え、理性的な計らいを徹底的に糾弾する。

 

 ここから、どちらのユートピア主義も否定する中島の「リベラル保守」の立場を表明する。

 そして、「ユートピア主義がもたらす近代科学と社会の暴走」、死生観の課題に対論は進む。

 

〇第五章 「ユートピア主義がもたらす近代科学と社会の暴走」

 中島岳志は、自らの「『「リベラル保守」宣言』で、「人間が理性を存分に使って正しく設定すれば、未来はよい方向に変革できるはずだと考える。つまり、未来にユートピアをつくることが出来ると考える」左翼的な主張に対して、「リベラル保守」の立場は、「理性万能主議」には懐疑的で、人間の理性だけでは、未来に理想社会が実現するとは考えない。長年の歴史の中で蓄積されてきた経験知や良識、伝統といった「人智を超えたもの」を重視するべきだと考える。

 

「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」と語っている。 

 

 そこから、吉本隆明の「反原発批判」に対する批判を展開している。

 中島は吉本隆明の問いかけは、親鸞思想の魅力と恐ろしさの両面をどのように考えるのかという重い課題と受け取っているとし、吉本の「反原発批判」は二つの側面があるように思うと中島は語っている。

 

 一つは進歩主義。科学を前進させることは人類の進歩そのものである。原発の危険性は「完璧な防御装置を作る」ことで乗り越えるべきという発想は、理性・知性の無謬性を基礎とする設計主義的合理主義に依拠しているのではという。

 同時に吉本は、科学を推し進め、危険な原発をつくってしまったことを「原罪」と捉える。原発を否定することは人間であることを否定することになると主張する。

 

 これは、現社会の近代工業技術社会にどっぷりつかっている人間が安易に反原発を唱えていることに、とんでもないよと反・反原発を唱え、少なからずの人に顰蹙をかったことを思い出す。(※加藤典洋が『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』などで、反原発には考えていく順序がいるなどで丁寧に解説している。)

 

 原子力の探求そのものは、「人間であることの罪」に関わるもの。この辺は、親鸞がぶつかった「悪人(正機)」という問題と重なる。

 

「原罪」も「悪人」も、人間は常に罪を背負っている不完全な存在と考える点では中島の言う保守思想立場と一致する。

 しかし、そこに親鸞の「自然法爾」の思想が加わると原発肯定、近代科学の全面肯定という論理が作られてしまうと中島は述べる。

 

 この辺りのことは、「第二章 親鸞主義の愛国と言論弾圧」で詳しく語られている。

 

 親鸞の「絶対他力」は、救いが人間側の努力によるものでなく、まったく阿弥陀仏の本願によるものだとする境地。「すべてのはからいを捨てよ」というのが親鸞のすべてだった。

「自然法爾」は、すべては阿弥陀仏のはからいによるおのずからなる働きであるということ。また、その仏のはからいのままにまかせること。

 

「絶対他力」「自然法爾」の思想を都合よく解釈して、戦前、天皇中心の〝国体〟を正当化する論理として、右翼や国粋主義者の拠り所となる。さらには阿弥陀仏の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えようとした日本主義者らが、大きな役割を果たした過去がある。

 

 親鸞に限らないが、ある思想家の思想を読み取るのは一人ひとり極端ともいえるほど違ってくる。

 親鸞の「絶対他力」「自然法爾」などの思想が日本主義者に、そのように受け取られる面はあるとしても、親鸞の思想は人間のはからいや「知」のさかしらさを突きはなしたもので、もっと深遠なものと、わたしは考えている。

 

 

 中島の話を聞いて、島薗は唐木順三の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(筑摩書房、1980年)を取り上げる。

 

「この書で唐木順三は、科学の原罪、つまり、科学技術がそもそも人類の文化を破壊する側面を持っていて、原子力はそういう事態を象徴的に示している。

 すなわち科学技術は人間のコントロールから独立して自動的に発展していく性格をもっている。手近な因果関係を見定めること自身が目的となって、短期的な利益に従属してしまう。そのために、原子力が原爆に使われるのを止められず、原子力発電が事故を起こし、環境を汚すのをコントロールできないものに展開していく。このように科学技術は破局が起こるまで止められない性格を内蔵している。と論を展開している」と島薗は語る。

 

 唐木順三の論に対して物理学者の武谷三男は『科学者の社会的責任―核兵器に関して』(勁草書房1982年)で、「そもそも科学にそういう破壊的な側面があるというのは誤っていて、政治的、社会的に適切にコントロールできなかったことに問題はあるが、科学そのものは何ら悪しきものを本来含んでいないと」と反論する。

 

 それを踏まえて、島薗進は次のように述べる。

「では、その後1990年代から21世紀に入って、武谷三男のように、科学を設計主義的にコントロールして、より良い社会を構成する考え方よりも、とにかく科学イノベーションで経済が活性化するから善だとする素朴な科学ユートピア主義が強くなっているように思う。

 つまり、科学技術と資本主義が手を取り合って、自動展開している。だから、原罪の意識もなければ、科学が危うい領域に踏み込んでいることに対する歯止めをかけようとする議論すら希薄になっている。」

 

「唐木順三と同様の批判は、ハイデガーやフランクフルト学派にも見られ、科学技術が人間の価値の体系から離れて、手近な目的、有用性の論理の中で自動展開してしまうことに問題の根本がある。

 福島原発事故に限らず、再生医療やゲノムや人工知能に関わる分野でも何か危ういことが次々と起こってくる現在の状況に光を当てるような要素がはいっていると思う。」

 

 

 中島は「保守思想では、人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、人智を超えた伝統や慣習、良識などに依拠すべきことが説かれる。左翼的啓蒙思想は、設計主義的合理主義によって成り立っており、そこには『理性への過信』が含まれる」と述べる。「保守」というカテゴリーにこだわることもないが、この説には共鳴する。

 

 人間の理性には決定的な限界が存在すると考え、それでも思考錯誤をしながら、多くの人と力をあわせ、よきものを探っていく。

 そのときに、手近な有用性の論理で自動展開してしまいがちな科学技術に距離をとり、これは人間や宇宙自然界の在り方から見てどうなのかという視点をおいておきたい考える。

        ☆

〇宗教は科学に介入できるのか
 第五章の後半は、宗教の社会的な役割と、『「死」の個人化がもたらすもの』と対談は進む。

 

 島薗進は次のように言う。

「近代科学、近代文明を追求していけば、原発やⅰPS細胞のように人間が人間であることをやめなくてはならない領域に踏み込んでしまう可能性があり、そうなれば生命の秩序、宇宙の秩序に反するものと宗教は言うべき、具体的には、一つひとつのいのちが軽んじられるあり方を認めることはできない」

 

「生命は授かるものであるという考え方に対して、生命を作るという考え方の中には、生命を手段とする可能性がおのずから入ってしまう。

 それから、一つひとつの生命は自分ではどうしようもない限界をもっているがため謙虚であり、お互いに共鳴し、我々の倫理の前提になっているが、人間の思い通りに変えることが出来るとなると、その倫理の基盤を失うことにならないかと、マイケル・サンデルなどの論がある」

 

 それに対して中島は、科学技術と宗教の問題は死生観の問題にぶつかると感じ、浄土真宗大谷派の法語「今、いのちがあなたを生きている」を紹介している。

 

「今、いのちがあなたを生きている」は「いのち」が主語で「あなた」が目的語になる。つまり、いま「いのち」というものが「あなた」に宿り生きているという意になるのか。

 

「自己を越えたところに命というものがあり、それが私という現象として今ここに存在している。だから、その命はまた帰っていき、どこかでまた生きるという、命の連鎖を考えている重要な法語と考えている」と中島は言う。

 

 中島は、こういう「器としての人間」という観念は東洋的な思想において、重要な底流としてあると思うし、仏教の根本的な「無我」の観念は、おそらくこことつながっているとも述べている。

 

 絶対的な自己が存在しているのではなく、自己は常に環境や出会いによって変化し続ける現象で、その現象に作用しているのが「縁」という力だという。

 

 死生観の問題を考え続けてきた島薗進は次のように述べる。

「自分の生は異なる形ではあるけれども未来へ引き継がれていく。そして、その未来の人がいることによって、自分の生の意味は確証されていると。

 そういう命が繰り返されていくことを当たり前のこととして受け止めていた世界においては、死を超える生命観がごく自然にあったと思う。」

 

「しかし、生命科学の発展は、そういう連帯感を壊し、今ある生の秩序と異なる世界をつくろうとする。要するに、生命科学は、『死』の個人化や孤立化を進めてしまう」

 

 本書を読んで、いろいろ考えさせられ、非常に学ぶところが多かった。

 

「今、いのちがあなたを生きている」は、「いのち」という大いなるものが、「わたしに」「あなたに」「こらから生まれてくるすべてのものに」、何らかの機縁で宿り生きている、との意味あいになる。

 

 中島によると、これは「与格構文」でヒンディー語によくあるという。

〈日本語〉「私は幸せだ」→〈ヒンディー語〉「私に幸いが訪れた」

「私はあなたを愛している」→「私にあなたへの愛がやってきて留まっている

「私はヒンディー語ができる」→「私にヒンディー語がやってきて留まっている」

 

 調べると、与格はヒンディー語だけではなくて、世界中の言語の文法によく含まれている構造らしい。

 

 また、鷲田清「折々のことば」にも取り上げていた。(朝日新聞2017.9.22)

「今、いのちがあなたを生きている」 真宗大谷派(東本願寺)

《2011年に催された親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマ。私が自らのいのちを生きるのではなく、いのちが私を生きていると考えるよう呼びかけた。これにふれて思い出したのが、臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容れ物の中を〈私〉が出入りする」という謎めいた言葉。共通するのは、身体を「私の所有物」とする考えを斥けていること。》

 

 

「今、いのちがあなたを生きている」は魅力のある表現で、このような言葉に出会うと、どういうわけか自分主体にものごとを捉えて生きてきた面がかなり強いなと思う。

 

「いのち」の水源から何かの「縁」で生まれ出て、その中で自然環境やさまざまな人と出会い、何かしら影響を受け、味わいを覚え、やがて「いのち」の水源に還っていく。

 

 コロナ過にかかわらず、自身の状態や親しい人たちの「死」に触れて、漠然と「死」を考えるときがある。

 

 印象に残る表現に、良寛の「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候   是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」がある。

 

 この言葉も計らいがないというのか、主体は「出会い・縁」で、それが、それぞれに訪れるという意味あいだと思う。

(つづく)

 

※中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』「全体主義はよみがえるのか」(集英社新書、2016)