日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎家族とは何だろう(橘 さつき『絶縁家族 終焉のとき』より)

※ 最近話題になっている、橘 さつき『絶縁家族 終焉のとき ―試される「家族」の絆』(さくら舎 、2021)を読んで、家族問題についていろいろ考えさせられた。

 

・「さくら舎」の本書内容紹介から。

〈 親子愛・家族愛信仰が強固な日本では、親子の縁は容易く切れるものではない。  親からの虐待、ネグレクト、過干渉や束縛に悩んできた40代、50代の人が老いた親から解放されたくても、親も社会も子が親の面倒をみるのは当然と考えている。

 問題を抱えた家族とその葬送について7年にわたり取材を重ねてきた著者が、“絶縁家族”の実態と、絶縁状態のまま家族の死を迎えた人の苦悩を浮き彫りにするノンフィクション。〉

 

〇『絶縁家族 終焉のとき』について

 著者の橘さつき氏(1961年生)は「日本葬送文化学会」という葬送文化の研究団体の常任理事で、自身に起きた問題をきっかけに、問題を抱えた家族の葬送を取材。「これからの家族の在り方と葬送」をテーマに執筆を続けている。

 

「崩壊した家族の別れ」の取材を重ねる過程で、原因は違っても、自身と同じように家族が壊れ絶縁している人々に出会った。さらに家族が相手ゆえに助けを求めることもできずにいる人も多くいることも分かった。

 

 家族の形は人それぞれだが痛みや傷を持つ人を他者が想像することは容易でないが、そうした人の声を届けることが、今まで苦しんだきた人にも、今悩んでいる人にとっても何かの救いにつながることを願って、まとめたのが本書である。

 

 著者自身も母親との壮絶な体験があり、一人一人に寄り添い丁寧に足を運んで取材している。その過程で信頼関係ができたからこそ、ここまで優れた物語にできたと思う。

 

 本書は著者が取材した約100例の家族の中で、最も象徴的で、印象に残っている8つの実話が紹介されている。

 その中に、わたしの知人も含まれていて、はじめてその経過を知ることになった。

 

 8つの実例は、第1章 絶縁家族のおみおくり/第2章 絶縁家族の乾いた別れ/第3章 絶縁の彼方に見たもので紹介されている。

 

 いたたまれない話もあれば心温まる話もある。

 さまざまな家族間のもつれ・葛藤は、どれもやるせなさを覚える一方、決して人に踏み込まれたくないだろう機微に耳を傾けて心を開かせる著者の熱意も伴って、その現実を受けとめる当事者の姿に毅然としたものを感じる実例もあった。

 

 わたしの知人の実例にもそれを覚えた。

 荒んだ生い立ちから転職を続け、鬱から引きこもりがちだった50歳代のSさんが「自分の正体を具に知る」べくカウンセリングを受け続けた。そこで「愛着障害」の見立てをされた。

 

 愛着障害の専門家のカウンセラーとの出会いで、過去にとらわれたままの自分から現実に目を向けるようになり、今では身近なところで社会貢献の活動を続けている。

 

 別の実例でも、ご自分の惨憺たる境遇にもかかわらず、毅然と明日に向かって生きていく様子がうかがわれる。

 

 また、静岡の水道もガスもない廃屋に暮らす破滅型で大酒飲みのアイヌの木彫師の死後の友人たちの弔いの心温まる話や、妻の死後に、自分の死後も含めて親友のお寺に「弔い」の世話を託した話など、血の繋がりのない、その他の関係を大事にする事例や「弔い」のあり方も印象残った。

 

 8つの事例を踏まえて、「第4章 悩める家族を救うお助け人」では具体的な支援につながる情報を提示している。

 

 カウンセラーとして、数多くの家族問題に苦しむ人を見てきた信田さよ子氏は著書『タフラブという快刀』の中で、次のように述べている。

〈『家族は社会の最小構成単位』などと言われるが、家族はまるで社会のゴミ処理場だなあ、と思うことがある。

 負の部分も腐った部分も引き受けて、社会を底辺で支えているのが家族なのだ。どんな社会にも非合法地帯が必要悪として存在しているが、家族もそんな役割を担っている。なぜなら、家族は治外法権であり、無法地帯だからである。

 家族の中では、外の世界では犯罪とされていることが平然と行われている。性犯罪、暴力、窃盗などのあらゆる犯罪が許されている」〉

 

 反響が大きくあった「NHKクローズアップ現代+」(2021年5月6日放送)の【親を捨ててもいいですか?虐待・束縛をこえて】で信田さよ子氏は次のように語っている。

 

《信田:聞く人が聞いたら不愉快でしょうけど、私は「親を捨てたい」と言わなきゃいけないところまで追い詰められてる人のことを思うと、本当に心が痛む。だからもし、私がカウンセラーとしてそういうことを聞いたら「いいんじゃないですか」、「親に対してNOって言うこともOKですよ」と言ってあげたいです。

 井上:それはどういう理由からそう思われたのですか。

 信田:誰もそういうふうに言ってくれないから。「親を捨てたい」、「いいですよ」なんて言ってくれないわけですから。カウンセラーぐらいは言ってあげてもいいんじゃないかと思います。》

 

 その言葉に涙した人も多くいたという。

 

 第4章では、どうしても和解できない家族がどう亡くなった家族を見送ればよいのか? 誰に何がサポートしてもらえるのか? 長年会っていなかった家族が大きな負債を抱えていることもある。亡くなってから連絡が来て、所在を知る場合も。そんな時、ご遺体を引き取り見送れば、相続放棄できなくなる。そんな人には聞けない悩みにも応じている。

 

「親を捨てたいという相談」「家族代行サービス」「生前契約の活用法」など詳細に紹介。親との縁を切って楽になりたい人々や絶縁家族の葬儀の方法についても具体的な金額とともに丁寧に記載してしてあり、「遺品整理」「絶縁家族のお墓」に伴う感情を優しく包み込みつつ現実の対応を示している。

 

「第5章 『弔う』ことの意味を求めて」では、著者の実例や「お弔い」に関わることになった経緯が語られる。

 

 著者自身の凄まじい家族との葛藤は次のようなものである。

 兄に子供が授からないのはお前が子供を持つからだと呪われ、第一子を産む臨月に始まり、その後第三子が生まれるときも「死産予告」の手紙を母からもらう。

 そんな家族の姿も突然始まったことではなく薄氷を踏むようにして維持してきた暮らしが内側からはがれるように腐乱した結果だと著者は考える。

 自分が育った家族の崩壊を目の当たりにしながら、新しい命と家族を築いてきた。家族というものの脆弱さと悲しさを身近に見つめても、やはり大切な家族でありたいと願い、子どもを育ててきた30年だったという。

 

 著者は「あとがき」で次のことを述べている。

《人は決して一人でこの世に生まれ、一人で生きてきたわけではない。

 人間は家族も含めた他者との関係の中で傷つき、また傷つけ合って生きている。遺された家族は故人の生前に分かち合えなかった傷を見つめ直し、わだかまりにそれなりのけじめをつけて、懸命に明日を生きていこうとしてきた。

(中略)ならば、去り行く逝く人が自己の責任を遺されたものに負わせることなく、自分で背負っていく美学こそあってよいのではないだろうか?

 そうしたお別れをして、この世を去りたいと思うのは私だけだろうか?》

 

 ここに著者が「葬送文化」の研究に関わるようになった一端が語られている。

 家族問題を考える人、抱える人などにとっていろいろ考えさせられる一冊だと思った。

 

※『絶縁家族 終焉のとき』が2022/01/10配信の文春オンラインで紹介されている。

 前編と後編にわたって、第4章・5章の本文抜粋のかたちで。

 前篇【《費用目安は100万円》「親を捨てたい」という声の高まりで5年の間に相談者数が5倍に増加…終活をサポートする“家族代行サービス”の実態 | 

 後編【親の死を「よかったですね」と言われて“救われる”…家族関係に問題を抱えた“絶縁家族”が経験した哀しすぎる最期に迫る | 

 https://bunshun.jp/articles/-/51271