日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎今野浩『工学部ヒラノ教授の介護日誌』を読んで。

〇著者が50年近く連れ添った奥さんが難病にかかり、病に倒れた妻を、看護し、介護し、見送るまでを、夫の立場で描いた本。

 脊髄小脳変性症関連の書籍を読んだ中では、介護のことを含めいろいろ考えさせられた。

 

「青土社」の紹介記事は次にようになっていて、内容を大雑把につかんでいる。

〈子育ても一段落、これからは夫婦の充実した時間が待っている。そう思っていた矢先、妻の突然の発病。病院通いのストレス、仕事と介護の両立、在宅介護と施設介護、制度変更に翻弄される日々、確実に衰えていく妻。老いた夫は何を考え、どのように行動したのか。絶望と希望のあいだを揺れ動く、19年におよぶ老老介護の記録。〉

 

 元東京工業大学教授の今野教授(ヒラノ教授)51歳の時、奥さんが悪性の不整脈と言われる「心室頻拍」を発症。その後1996年奥さん55歳の時、小脳が委縮して、運動機能が徐々に失われていく、「脊髄小脳変性症」という回復不能と言われている難病を抱える。

 

 教授には他に2人の息子さんがいるが、それぞれの生活があり、遠方にも住んでいるため、協力を求めるのは現実的ではないと思っていて、支援を求めていない。

 一方、娘さんは母親の遺伝なのか,奥さんが患ってまもなく発症する。そんなのが原因で離婚となっているばかりか、離婚前には当時の夫から暴力を受ける。

 そして、奥さんだけでなく、娘さんに関してもほぼ同時に介護をせざる得ない状況に追い込まれている。

 

 介護をする過程で起こってしまうDVにもヒラノ教授は本書で言及している。そしてそれは娘さんの夫のことだけでなく、自分自身も痛みで夜泣きする妻に教授は暴力をふるったことを正直に書いている。また、無理心中などにも触れていて、この辺りは身につまされる。

 DVは人ごとではなく,このままでは,殺人者になりかねないと,要介護度四まで進んだ在宅介護をあきらめて介護施設を捜すことになる。ここまでが第一部。

 

 第2部は、2007年、事情によりご夫婦そろって介護施設入居して、そこから研究室を往復する日々を送るようになる。その後教授自身も「大腸憩室」の発病。老化した大腸壁の血管が切れて大出血、即入院800ccの輸血を受ける。15日目目に予定より早めに退院。

 2009年、奥さんは要介護度五の診断、いわゆる”寝たきり状態“に入る。また腰椎陥没と診断される。

 

 そして、著者がちょうど私立大学の定年を迎えた2011年4月、本稿執筆の5年前に、息を引き取る。そこまでの夫婦の日々が綴られている。

 本書の中で、著者は傷ついたり、絶望したり、自暴自棄になったりする。でも、それと同時に、どこかで冷静な著者がいるのが感じられる。

 

 教授の説明によると、この病気は発症後10年ほどで、嚥下機能に障害が出て、誤嚥性肺炎で亡くなることが多いそうで、奥さんの最期のきっかけは誤嚥性肺炎によるもので気管切開して声を失うが,意識はずっとはっきりしていたようだ.この気管切開が実は「延命措置」に他ならなかったと,後まで悔やむことになる.

 

 著者は介護生活を振り返りながら、まだ自分は幸運だったと綴っているが、金銭的なこと、介護施設に入居しても自分自身がそこで介護しなければならない現実、遺伝性の病気で家族が同時に発症するケースなど、ヒラノ教授が経験したことを自分たちに引き付けて考えていた。

 

  また、妻への愛しみが、在りのままに書かれていて、自身の「心の冷たさ」のような部分と忌憚なく向き合っているのも、読後感を爽やかにしている。

 確かに教授個人的には、ほとんど他の人に依頼することなしに、担いきった力があり、特殊なケースではある。

 だが、教授自身が関わった医療や介護状況など、具体的な金額も含めて詳細なデータがあり、介護、医療にかかわる場合の参考の一つにもなると思う。

 

※著者は遺伝によるものとしているが、日本では遺伝性が30%ともいわれている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように記録されている。

〈2000年現在で日本では2万人弱の患者がいると考えられている。日本では遺伝性が30%であり、非遺伝性が70%である。欧米と異なり遺伝性のSCAは大部分が優性遺伝である。主に中年以降に発症するケースが多いが、若年期に発症することもある。非常にゆっくりと症状が進行していくのが特徴。10年、20年単位で徐々に進行することが多い。だが、進行の速度には個人差があり、進行の早い人もいる。遺伝性のものは孤発性よりも若年発症が多いが、DRPLAを除き孤発性よりも予後はよいとされている。〉