日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか?」

〇恩蔵絢子著『脳科学者の母が、認知症になる』を読んで。

 内容は、記憶を失っていく母親の日常生活を2年半にわたり記録。アルツハイマー病になっても失われることのない脳の力を、脳科学者として、娘として考察していく。

 

 認知症に関して、家族や仕事でいろいろな方に携わり、現在も親しくしている友人がその渦中にあり、そのご家族から連絡などでその深刻さを知るだけで、その大変さが伝わってくる。

 

 この著に触れた限りでは、まだ初期から中期のはじめの段階だと思われるが、こういうものは比較するものではないし、当事者や家族にとっては不安な状況であると思う。

 また、父母に暮らしを支えられて、長年研究者として活動できているという特殊な境遇にあり、そのことで逆に、母の認知症により、困難を抱えるという面もある。

 

 この著の特質は、主に認知症という「病状・ケース」をみるのではなく、認知症になった「この人・母」に向き合って見ていく、ともすると忘れがちになる、基本的な態度にある。

 

 認知症に限らず高次脳障害など、誰しも起こる可能性のある脳の病状により「その人らしさ」がどのようになっていくのだろうか、母に寄り添いながら問い続けていく

 副題にある「記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか?」との視線が一貫している。

 

 アレッと思ったこと、驚いたこと、困ったこと、イライラしたことなど具体的なエピソードと、脳科学者としての知識、研究成果を照応させながら展開していく。

 

「感情こそ知性である」と題された終章は味わい深い。

〈最初は、私も「母が母でなくなってしまった」と落ち込んでいたのだが、今は少し違う気持ちでいる。

「何かが効率的にできる」「論理的に物事が考えられる」「誰かのために何かがうまく実行できる」という能力だけが、母らしさを形成してわけではないのだ。「誰かのために動きたい」という感情は、いまでも変わらず残っていることに注目しなくてはならない。-------

 母は、私たちに対してたくさんの愛情を変わらずに持っている。認知機能の作る「その人らしさ」の他に感情の作る「その人らしさ」があるのである。

 感情は、生まれつきの個性であり、また、認知機能と同じように、その人の人生経験によって発達してきた能力であり、いまだに発達しつづけている能力である。

 アルツハイマー病を持つ人々は、体を通して、新しいことを学び続けることができる。彼らの経験は、意識的に取り出せなくても、体には積もっている。また彼らは、この病気になって「人生で初めて味わう悲しみ」も感じている。我が家について言えば、そのような悲しみとともに、これほど家族が一丸となったことはなかったのだし、母も「こうなって初めて感じた喜び」があることだろう。----最後まで「初めてのこと」は続くのである。

 できなくなっていくことと同時に、生物として大事な「感情」というシステムを使って、その人がどう生きるか、私はそれを見守っていこうと思う。結局母は生涯、母なのだ。〉

 

「理解力が衰えて、なお残っているものが、母が人生の中で大事にしてきたものなのではなかろうか」と著者は述べる。

 また、感情的判断は、地球に生物が誕生して以来、どういう状況にどういう反応をすると生き残ることができるのかという経験を、生物が代々積んで進化してきたもの。

 理性より感情の方が、ずっと長い過去から人間が培っていたものであり、老いて認知症になって理性がうすれても感情は強く残る。また、脳の中では感情の方が、いわゆる理性より安定していて、病気でも壊れにくい。人は感情の動物であり、感情がなければ、生きるための力が欠けると言われている。

 

 おそらくこの先、戸惑いや困難が増してくると思われる。それに向かっていくのに、この視点は大事だと思う。

 これについて、『ALL REVIEWS』に掲載されている、養老孟司氏による書評で、この著者を温かく見ているのも印象に残った。

 

〈人生には負の面がかならずあって、それを想像すると極端になりやすい。その治療はじつは簡単で、正面から向き合えばいいのである。著者は脳科学を武器として母親の認知症に向き合った。健気な戦いだと思う。この戦いには勝ち負けはない。ただ一つ、そこで得られるものがある。それは自分が成熟することである。その意味で人生は一つの作品である。著者という作品が完成に近づくことを期待する。〉

https://allreviews.jp/review/2726

 

※恩蔵絢子『脳科学者の母が、認知症になる:記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか?」(河出書房新社、2018)

 

参照:PRESIDENT Online(2019/03/16)の著者自身の記事・「母が認知症になって脳科学者が考えたこと」から抜粋。

〈・アルツハイマー型認知症にできること

 病院に行ったら、具体的に脳のどの部位が萎縮し、活動が落ちているかがわかりました。

 母親の場合、記憶の中枢である海馬の萎縮が大きかった。

 海馬が萎縮すると、既に蓄えていた古い記憶には問題がありませんが、新しいことを覚えることが難しくなります。だから、さっき言ったばかりのことをまた聞くし、やると言っていたことをやらずにおいてしまいます。

 それから、その人が得意だったことができなくなってしまいます。私の母親は、今まで手際よくやっていた料理をしようとしなくなっていました。

 それはこのように起こります。

 おみそ汁を作ろうとして、水をいれた鍋をコンロに置く。そして大根を刻み始める。すると大根を刻んでいる間に、おみそ汁を作ろうとしていたことを忘れてしまうのです。なんのために自分が大根を切っているのかがわからなくなるので、作業を目的通りに遂行することができなくなるのです。

 当然、本人は、「私はなにをしようとしていたのだろう」「私はなぜここにいるのだろう」と不安になります。そんな不安は感じたくないから、自分の得意だった作業からも遠ざかってしまうのです。

 

・「目的」を思い出してもらう

 母親があまりにも簡単なことで失敗したり、勘違いしたりすると、慣れないうちは、家族も「なんでこんなことができないの?」と思ってしまいました。そのような発言や、まなざしは、すでに十分不安になっている当人を傷つけました。母親は、青白い顔をして、ソファに座ってばかりいるようになりました。

 簡単なことが覚えられなくなったり、得意だった作業ができなくなったりしたのは、海馬が萎縮したためです。それをはっきり認識したら、対策がわかりました。

 例えば私が、台所で母親の横に立てば良いのです。おみそ汁を作っているという目的を忘れてしまうなら、そのたびに母親に言って、思い出してもらう。母親は、包丁を使う技術を失ったわけではない。ただ「目的を覚えておく」ことができなくなったのです。

 実際、「これはなんで切っているんだっけ?」と聞かれるたびに、「おみそ汁のためだよ」と言って、思い出してもらうことを続けたら、母親は、やる気を取り戻してくれました。

「治す」ことはできなくても「やれる」ことはたくさんある

 アルツハイマー病は、何十年という時間を掛けて、ゆっくり進行する病気です。一朝一夕に、全ての能力を失ったりはしません。料理をする能力を失ったのではなくて、目的を覚えておくことができないから、しなくなっただけなのです。

 そのように細かく、母親の抱えた問題を明らかにしていくことによって、対策がわかり、母親の生活、家族の生活に活気が取り戻されていきました。「治す」ことはできなくても、「やれる」ことはたくさんあったのです。

 私は、細かく日常の中で起こった、母親の問題、家族の問題について日記を付け、科学的に分析をしていきました。

 もう一つ例を挙げれば、次のような特徴的な症状がありました。

 食卓に着いていると、母親が突然、「あれ? ちびちゃんはどこへ行ったの?」と言うのです。

 わが家には、小さな子供はいません。しかし、かなり頻繁に、母親は「ちびちゃん」の存在を気にします。

 このようなとっぴな発言に、最初は家族もぎょっとしていました。

 先に書いたように、海馬は新しい記憶を固定することに使われる重要な組織です。それゆえに海馬が萎縮すると、新しいことは覚えられなくなりますが、昔の記憶には問題がないことが多い。

 

・「能力」だけがその人を作っているのか?

 はじめアルツハイマー型認知症は、母親の人格を変えてしまう、怖い病気だと思っていました。しかし、診断から3年がたった現在は、そういう病気ではないと感じていて、安心して暮らしています。

 当初、母親を病院に連れて行くのに10カ月もかかってしまったのは、できていたことができなくなる、記憶を失っていくと、母親が母親でなくなる気がしていたからです。「母親が母親でなくなってしまうかもしれない」それが私にとっての一番の恐怖でした。

 しかし考えてみると、なにかができる/できないということ、つまり「能力」だけが、「その人」を作っているのでしょうか? また、記憶を失ったら、その人は「その人」でなくなってしまうのでしょうか?

 アルツハイマー型認知症を母親が患って、私は人間の根本を問うことになりました。「その人らしさとは何なのか」医学では問われることのない脳科学の問題に、私は挑むことになったのです。〉 

https://president.jp/articles/-/27987?page=3