〇遊びに来た友人からブログに連載している「たまゆらの記」の「たまゆら」の意味を聞かれた。
『広辞苑』などによると〈たまゆら(玉響)は、勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音のこと。 転じて、「ほんのしばらくの間」「一瞬」(瞬間)、あるいは「かすか」を意味する古語。『日葡辞書』には「草などに露の置く様」とある。〉そのことばのもつ響きや意味するところが印象に残り、私の身辺や心に触れてくるよしなしごとの記録として使った。
また、亡くなられた吉田光男さんの晩年の日録『わくらばの記』の最後のタイトルは「たまゆら」となるが、それについて次のように述べている。
〈「ほんのしばらく」というのは、私の病状から言ってふさわしくないことはなく、「たまゆら」という言葉の響きが好ましい印象だし、これを魂と魂との響きあいと解釈すれば、なお私の求めているものと一致するように思えた。〉と記載している。
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「たまゆらの記」に限らず日々の心に触れていることをブログやFacebookに書いている。
日々様々なことを感じたり、考えたりする。ときには、あまり関係ないような何かとつながったり、発作的にひらめいたりすることもある。
それを、メモ的にも記録しておかないと、結局あやふやなものになって消えていく。字を書くことの習慣化していないのと、後から読んでも、くちゃくちゃとしていて、自分でもよく分からないことが多い。結局パソコンを使うのだが、ある程度文章化していなかったり、整理していかないと。パソコンの中も雑然としてくる。
これまでも、ある表題のもとに文章を書くことはしてきて、書くことでよりハッキリしてくること、そのことに対する知人からの批評や反応に触発されて、多面的になり、より複眼的に探っていきたくなることもあり面白い。
また、自分の考えていることはどこまでも一面的であり、読む立場からすると、他の人の発信されたものから様々に影響を受けたり、触発されたりしている。
主な宛先は自分でもあるが、友人・知人、未来の知人である。といっても、個人的な備忘録と違って、他の人が読んでも分かるように書くことを意識する。
日記、備忘録や挨拶的な文書とは別に、ブログでもFacebookでも、他の人たちに発信していくのは、つきつめると、「聞いてください(ほしい)、一緒に考えてください(ほしい)、知らせたい(知ってほしい)」の三通りになるのではないかと思っている。
いずれの場合でも、人の立場を尊重しながら、情理を尽くして語ることが欠かせない。その上で、書き手や読み手の「生きる知恵と活力」、あるいは、「より探っていこうとする意欲」を高める文章であることが望ましいが。