日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の子育ての1年6ヶ月を振り返ってみて。

※緊急事態宣言が出て日々散歩していると、子ども連れの家族、乳幼児を連れたお父さんお母さんとよく出会う。総じて和やかな雰囲気があり、子どもたちも楽しそうである。

 

〇子供の日に、孫の子育ての1年6ヶ月を振り返ってみた。

 一歳半を過ぎた孫の成長を見ていると、あたかも双曲線のごとく私の身体的な劣化を感じることがある。

 また、家族のことや、人が生きて死んでいくことについて、いろいろ考える。

  

 ひとは生きるために、その生涯の出発点で、他者からの援助を必要とします。赤ちゃんはぎゃあぎゃあ泣いて、お乳をほしがって、飲んで、寝て、うんこして、お母さんの顔を懸命に覚えて、とにかく必死で生きようとしている。

 

 それに対して、なんの留保条件なしに、乳首をたっぷりふくませてもらい、乳で濡れた口許を拭ってもらい、便にまみれたお尻を上げてふいてもらい、からだのあちらこちらを丁寧に洗ってもらい、からだを包み込むように服を着せてもらうことなどから日々の暮らしが始まる。

 

 言うことを聞いたらとか、おりこうにしたからとかいう理由や条件なしに、自分一人ではほとんどのことができない弱い存在でありながら、生命力あふれるいのちがここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらう。

 

 大人というものは小さく、弱く、はかなげなものをほっておけない力を潜在的にもっているそうで、これは子どもがいるいないにかかわらず、女性、男性にかかわらず、どんな人にもあるのではないかという発達心理学者もいる。

 

 長らく家族、家庭のあり方が大事にされてきたのは、この世に授かった個人をはじめ、どのような人でも、もっとも弱く非力な人たちであっても、その人らしさを失わずに自尊の感情をもち、みんなの輪の中で安心して暮らしていけるようにと、ああいう人間になったらといったような条件をつけずに、その存在を全的に受け止める基盤であったからだと思う。そのような家庭で育ったひとは、「親密さ」「信頼感」「安心感」の基礎となるようなものを、からだで深く憶えていくのではないかと思う。

 

 やがて、いろいろなものに好奇心を覚え、動き回るようになります。また、お母さんや周りの人たちから声をかけてもらったり、話を聞いたりして言葉を使えるようになる。

 

 歩けるようになったばかりのときは、嬉しくて歩き回る。つまずいて転び、痛い思いもするが、泣きながらでも、すぐに立ち上がる。そんな時、温かい気持ちで見守っていてくれる人がいて、やさしく抱きとめたり、「痛かったね」などと声をかけたりしてあげれば、痛みも半減するのではないだろうか。

 

 ときには、見ているおとなが肝を冷やすようなことも多々生じてくる。高い所によじ登って飛び降りてみたり、狭いところに入り込んだり、重たいものを持ちあげようとしたり、そのような体験をしながら、からだでいろいろ覚えていくだろう。そのためにも、まわりにいろいろな人が、見ていないようなふりをしながら、危険なことにならないように見ている人がいることが大きい。

 

 また、子どもだけでなく、育てる側のおとな、すなわち親自身が成長することが、実は子どもの育ちにとって重要であるということ。親自身が、日々の生活のなかで、活き活きと成長していなければ、子どもにも、よい影響を与えることはできないと思う。

 お母さんと子どもは経験を共有し、影響しあいながら、お互いに知識や経験を深めながら成長していく。これを「母子相互作用」と言うそうだ。

 母性は先天的に備わっているものというよりも、妊娠中や出産後の赤ちゃんとの関わりを通して形成されていくのだろう。その意味でお産直後からお母さんとお子さんとの関わりを深めることが大切ではないかと思う。

 もちろんお父さんの役割も大事だ。

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 このように振り返ってみると、特に乳幼児期に目立つが、そこに限らず、人が生きていくことは、数多の人に支えられ、見守られ、その相互作用によって生かされてきたのだと思う。

 その中で、より多くの人との「信頼感」「安心感」のある良質な関係が大事だなと考える。

 

【参照資料・詩】
※吉野弘の詩二篇
・「一枚の絵」
一枚の絵がある
縦長の画面の下の部分で
仰向けに寝ころんだ二、三歳の童児が
手足をばたつかせ、泣きわめいている
上から
若い母親のほほえみが
泣く子を見下ろしている
泣いてはいるが、子供は
母親の微笑を
暖かい陽差しのように
小さな全身で感じている

「母子像」
誰の手に成るものか不明
人間を見守っている運命のごときものが
最も心和んだときの手すさびに
ふと、描いたものであろうか
人は多分救いようのない生きもので
その生涯は
赦すことも赦されることも
共にふさわしくないのに
この絵の中の子供は
母なる人に
ありのまま受け入れられている
そして、母親は
ほとんど気付かずに
神の代わりをつとめている
このような稀有な一時期が
身二つになった母子の間には
甘やかな秘密のように
ある
そんなことを思わせる
一枚の絵
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・「奈々子に」
赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。
唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。
お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。
ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。
自分があるとき
他人があり
世界がある。
お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。
お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。
(『生命は 吉野弘詩集』リベラル社、2015より)