日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎一市民として「憲法九条」を考えてみる。②(矢部宏治と加藤典洋から)

〇「憲法はアメリカの押し付け」という主張を巡って、だから独立国として私たちのこととして作り変えようとする「改憲派」と、今の平和憲法を絶対に守ろうとする「護憲派」、その中にはいろいろな思惑があり、日本国憲法を書いたのはGHQだということは歴史的事実としてあるけれど、「中身が良ければ誰が書いたっていいものはいいんじゃない?」というような見解もある さらに「左折の改憲」による対米従属からの脱却を強く訴えかける人も一部いる。

 現在の私の立場は、当面、現憲法九条を維持することがいいと思っている。そして、「改憲」による対米従属からの脱却を図ることを誘うための機運の熟成が必要だと思っている。

 

 ここでは、「護憲派」と言われている中で、今の私の感情に近いものとして、内田樹など4人の論による『 9条どうでしょう』から、ある意味どうかなと思うことも含め、憲法に関して専門家ではないゆえの感覚に関心を覚えた二人の論から一部取り上げた。

 次に「改憲派」の中で、もっとも刺激を受けた矢部宏治『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』の憲法に関する一部をまとめた。この論の始終に関してどうこう言えるだけの知識はないが、綿密に調べ、書き記した印象をもった。

 加藤典洋『敗戦後論』『戦後入門』は、いろいろ考えさせられた著書で、これからもいろいろと参考にしていきたいと考えている。ここでは憲法に関することを取り上げた。

 ただ、氏の日本国憲法「九条強化案」の方向性はともかく、今の国際状況ではどうかなと思っている。

 

〇憲法九条のこと

 憲法第九条:(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 憲法九条第1項の内容「戦争の放棄」、第2項前段の内容「戦力の不保持」、第2項後段の内容「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている条文は、今までの歴史を踏まえると、あまりにも高邁な理想にみえる。だが、この理想はあらゆる戦争廃絶への明快な筋道であるのではないか。 今の世界状況からすると非現実的ではあるが。

 

 憲法九条の戦争放棄条項支持の力源は、人びとの戦争体験と思う。身近な家族、友人をなくし、二度の原爆を受け、殲滅に近いような沖縄をはじめ、空爆などによる大被害の体験から、誰が何と言おうと戦争はよくない、戦争を誘うような国家、言説は信じないと考え、感じる。そのような動かしがたい心が、戦後70年以上の不戦状態、平和状況を維持し、憲法9条を支えてきた。だが、戦争体験者が減ずる中で、戦争放棄の内実を構築していくことが大きな課題になってくると思われる。

 

 しかし、沖縄は敗戦後も米国の統治下に置かれ、日本政府の行政権は及ばなかった。その後の冷戦、朝鮮戦争などが続き、米国の傘のもと外部からの攻撃に対する防衛最前線となっている。1971年の沖縄返還協定による返還後も沖縄の基地化は現在も続いている。 

 憲法九条は、沖縄の基地化により可能となってきたことを押さえておく必要がある。

 

〇『 9条どうでしょう』内田樹他著(ちくま文庫、2012)から一部抜粋

 ここでは二人の論から抜粋する。

「内田樹」:憲法九条と自衛隊の「内政的矛盾」は、日本がアメリカの「従属国」であるという事実のトラウマ的ストレスを最小化するために私たちが選んだ狂気のかたちである。そして、その解離症状から引き出しうる限りの疾病利得を私たちは確保してきた。それは世界史上でも例外的と言えるほどの平和と繁栄をわが国にもたらした。だから、私はこの病態を選んだ先人の賢明さを多としたいと思う。

・第一章 「日本国民」とは何か

 普通、一国の敗戦の場合は、敗者である政権と別に、戦後処理をする受け皿があるもの。日本はそれなしに挙国一致で敗戦に至った珍しい例であり、戦争の目的もはっきりしないし戦争の責任を引き受ける主体もなかった。

 したがって新憲法は、「日本国民」の名のもとに米国から与えられざるを得なかった。中身としては理想的・未来的なすぐれたものでありながら、存在理由として脆弱である。

 大事なことは、それでも「戦争で手を汚すことがない」70年という時間。そこにノーベル平和賞に値する価値があり、それを守ったことこそが「日本国民」というものを「つくりそだてた」のではないか。〉

 

「平川克美」:〈「普通の国の寂しい夢―理想と現実が交錯した20年の意味」わたしは、現行の憲法は何が何でも総体として変えてはならないと主張する護憲派ではない。いや、たとえ一字一句同じ憲法であったとしても、日本人はもう一度、憲法というものを自ら選び直す必要があると思っている。また、専守防衛の自衛隊の構想と、今のような自衛隊を育ててきたことを評価してもいる。その上で、自衛隊の存在意義を憲法に位置付けられればいいと思っているのである。

 しかし、この間の改憲の議論を見ていて、「彼ら」には憲法を変えていただきたくないと思うのである。「彼ら」とは、世界の現実に合わせて、あるいはアメリカの極東軍事戦略に沿って、憲法第九条を変更して国軍を海外に展開したいと望んでいるもののすべてである。「それで、国が守れるのか」と、戦後60年間、現行憲法の理念に希望を見出そうとしていた人々の声に恫喝を加えるもののすべてである。集団的な自衛権は、近代国家としての普遍的な権利であると主張する現実派のすべてである。また、軍事力を外交交渉のカードとして使いたい戦略政治家のすべてでもある。そして、このような「常識」に賛意を示す善良なる日本人大衆である。

 「彼ら」に共通しているのは、「現実」というものは、自分たちが作り出すものに他ならないという認識の欠如である。「現実」に責任をとるということは、「現実」に忠実であることではなく、「現実」を書き換えるために何をすべきであるのかと考え続けることである。〉

 

〇矢部宏治『日本はなぜ,「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル,2014年10月)から。主に憲法九条に関連して。

・日米合同委員会で決定した様々な取り決め、合意や「密約」は原則公表されない事になっているが、厳然と日本の政治に大きく影響を与えている。ひとつの国のウラに、もうひとつの法体系が存在するのだ。一体このような「憲法違反」の状態がなぜ存在し得るのか?

 それは、後に「安保法体系」とも呼ばれるようになったこの日米が織り重なった支配構造を保持しながら、国際法的には主権国家としての体裁を整えるという法的なトリック作りのために、そもそも憲法自体が100%占領軍であるGHQのコントロール下で書かれているからである。

・なぜ、日本は「自己決定権」を発揮しきれないのか。それは、立憲国家の大前提である「憲法」を「自分たちの手で書いていない」事にある、と指摘する。

・「中身さえ良ければ誰が書いたっていい」問題については、「良くない。全く間違っている」。その国の主権者が自ら憲法を書いていることは立憲主義の本質であり、そんな非常識なことをやっているのは日本だけだと断言する。

・九条問題。これを解決するには九条1項(戦争放棄)と2項(戦力および交戦権の放棄)を分けて議論する必要がある。1項は、1928年のパリ不戦条約の流れをひく、国連憲章の理念そのもので、このような不戦条項は他国の憲法にもあり、日本特有のものではない。

・九条問題とはすなわち2項問題である。1項は今のままで国連憲章を中心とする「国際法の原則」に拠って立つことを示しさえすれば、2項はある意味、技術論。専守防衛の縛りをかけた最低限の防衛力を持つことを決めておけばよい。

・対米従属問題。国内に外国軍を駐留させているのは独立国ではない。米軍撤退を憲法に明記すべきである。そして、できると断言。お手本はフィリピン。米軍を完全撤退させながらアメリカとの安全保障条約を維持している「フィリピンモデル」こそ、大戦敗戦国が主権を回復する唯一無二のセオリーである。

 

〇加藤典洋『敗戦後論』(講談社、1997)、『戦後入門』(ちくま新書、2015)から。

 加藤典洋は、「護憲の考えをもっと徹底することだけが、いまの日本の問題を根本的に解決する唯一の道だ」としつつ、九条の精神をより徹底化し、実現化するための、「九条改案」を示している。

 

 加藤氏の問題意識は、「平和憲法」は米国の軍事力の威圧化の下でつくられたものという「ねじれ」を抱えたものであるとするもの。

 

〈わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。---しかし、それだけではない、その矛盾が、「指摘されない」。というより、その矛盾、「ねじれ」の中にある「汚れ」がわたし達によって直視されず、わたし達においてまた、抑圧されてしまう。(中略)

わたし達は「強制」された。しかしわたし達は根こそぎ一度、説得され、このほうがいい、と思ったのである。-------この憲法の精神を尊重するがゆえに、この憲法をもう一度「選び直す」べきだという、この憲法の「ねじれ」に立脚した主張だけが、語られなかったのである。(『敗戦後論』p21~p23)〉

 

 この平和憲法にまつわる「ねじれ」を解決することなしに、対米従属問題は解決しないと考えた。

 

「戦争に敗れてから七〇年もたって、なお戦後七〇年ということが問題になるのは、その『戦後』が終わっていないからです。」(「はじめに」より)

 

 著者は「左折の改憲」による対米従属からの脱却を強く訴えかける。その道筋として、憲法九条の国連中心主義に基づく改正構想を描く。その憲法九条の改正にあわせて米軍基地撤去を進めることによって、国際社会における孤立を回避した対米独立の実現が可能となる。その道筋が単なる空論ではないことを1987年のフィリピンにおける憲法改正、米軍基地返還の実例を示しながら、述べていく。その構想の是非は何とも言えないが、ともに考えていきたい意欲的な一つの私案だと思う。

 

〇加藤典洋氏による日本国憲法「九条強化案」

 「憲法第九条」

 一、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(1項は現行通り)

二、以上の決意を明確にするため、以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は、その一部を後項に定める別組織として分離し、残りの全戦力は、これを国際連合待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第四七条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加以外には、発動しない。国の交戦権は、これを国連に委譲する。

三、前項で分離した軍隊組織を、国土防衛隊に編成し直し、日本の国際的に認められている国境に悪意をもって侵入するものに対する防衛の用にあてる。ただしこの国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる。平時は高度な専門性を備えた災害救助隊として、広く国内外の災害救援にあたるものとする。

四、 今後、われわれ日本国民は、どのような様態のものであっても、核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。

五、 前四項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。

 

※2015年12月9日、日本記者クラブで10月に出版された『戦後入門』(ちくま新書)を軸に戦後論について話し、記者の質問に答えた。

・日本記者クラブ 「戦後70年 語る・問う」(40) 

『戦後入門』をめぐって―戦後70年目の戦後論 加藤典洋(文芸評論家)

参照:https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/2015/12/fcde2ef05cd6b7a00a76bc82c46d2401.pdf

YouTubeで会見動画が見ることができる。