日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「働く」ことの本質は「贈与すること」(内田樹の「働くとはどういうことか」から)

〇最近再燃してきたベーシックインカム(BI)論から、「働く」について考えてみる。

 ベーシックインカム(BI)とは、「すべての個人が、無条件で、生活に必要な所得への権利を持つ」という考え方で、「働くこと(生きること)」と「生きるために必要な所得(お金)を得ること」を切り離して考える構想。

 

「働く」というのは、「動く。精神が活動する。精出して仕事をする。他人のため奔走する。効果をあらわす、作用する。」などの意義があり、ある意味、人が生きるとはそういうことであり、稼ぎ(お金)に換算するとか、生産性をあげることとは別のことである。

 

 武道家の内田樹は「働くとはどういうことか」について記事を寄せている。

《「働く」ことの本質は「贈与すること」それは人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである。》

 

 筆者は「人間だけが労働する」という視点から、「『労働』とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことである、そういうことをするのは人間だけであるだろう」と述べる。

 

 そして、「労働」とは、「他者」という存在があって初めてなされることであり、自分も他者も共に喜びを分かち合う、という心からなされる喜びにあふれた人間の行動である。

 

 労働は価値を創出する。だが、価値というものは単体では存在しない。価値というのは、それに感動したり、畏怖したり、羨望したりする他の人間が登場してはじめて「価値」として認定されるからである。

 

 それに対して、近代固有の労働観を次のように述べる。

《「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着し、働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。》

 

『Time is money(タイムイズマネー)』で著名なベンジャミン・フランクリンの労働の目的が「貨幣を得ること」という労働観を紹介し、次のように述べる。

 

《「人間が労働するのは、できるだけ多くの貨幣を得るためである」という倒錯した労働観が現在では「常識」として流布されている。

それは「より多くの貨幣はより多くの幸福をもたらす」という(これまた蓋然性のあまり高くない)命題とセットになっている。》

 

 そして、近代固有の「労働観」および経済活動についての理解は逆立していると述べる。

(内田樹の研究室「人間はどうして労働するのか」2009-12-16より)

 

「働く」ことの本質は「贈与すること」を別の角度から述べた文章がある。

 

《労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。

 報酬はつねに集団によって共有される。

 個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。

 個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。

 だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない。

 これは子どものころから家庭内で労働することになじんできている人には別にむずかしいことではない。

 みんなで働き、その成果はみんなでシェアする。働きのないメンバーでも、集団に属している限りはきちんとケアしてもらえる。

 働くというのは「そういうこと」である。》

(内田樹の研究室「若者はなぜうまく働けないのか?」2007-06-30より)

 

 このことは家庭内のことを見れば、このように展開しているところも多いだろう。お母さん、お父さん、子どもたち、それぞれ何らかの「働く」をしている。赤ん坊、寝たきりのジジババなど、ケアされるだけの人もいるかもしれない。しかし、「働く」成果はつねに集団によって共有される。

 その一つひとつの小さな集団が集まった大集団から、社会になっても「働く」の本質は変わらないと思う。

 参照:http://blog.tatsuru.com/2009/12/16_1005.html