日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎子どもが育つ環境について思うこと。(二人目の孫が生まれて)①

〇よい環境で育つ、人の中で育つ

 ひとは生きるために、その生涯の出発点で、他者からの援助を必要とする。赤ちゃんはぎゃあぎゃあ泣いて、お乳をほしがって、飲んで、寝て、うんこして、お母さんの顔を懸命に覚えて、とにかく必死で生きようとしている。

 

 それに対して、なんの留保条件なしに、乳首をたっぷりふくませてもらい、乳で濡れた口許を拭ってもらい、便にまみれたお尻を上げてふいてもらい、からだのあちらこちらを丁寧に洗ってもらい、からだを包み込むように服を着せてもらうことなどから日々の暮らしが始まる。

 

 言うことを聞いたらとか、おりこうにしたからとかいう理由や条件なしに、自分一人ではほとんどのことができない弱い存在でありながら、生命力あふれるいのちがここにいるという、ただそういう理由だけで世話をしてもらう。

 

 おとなというものは小さく、弱く、はかなげなものをほっておけない力を潜在的にもっているそうで、これは子どもがいるいないにかかわらず、女性、男性にかかわらず、どんな人にもあるのではないかという発達心理学者もいる。

 

 長らく家族、家庭のあり方が大事にされてきたのは、この世に授かった個人をはじめ、どのような人でも、もっとも弱く非力な人たちであっても、その人らしさを失わずに自尊の感情をもち、みんなの輪の中で安心して暮らしていけるようにと、ああいう人間になったらといったような条件をつけずに、その存在を全的に受け止める基盤であったからだと思う。

 

 そのような家庭で育ったひとは、「親密さ」「信頼感」の基礎となるようなものを、からだで深く憶えていくのではないだろうか。

 

 やがて、いろいろなものに好奇心を覚え、動き回るようになる。また、お母さんや周りの人たちから声をかけてもらったり、話を聞いたりして言葉を使えるようになる。

 

 歩けるようになったばかりのときは、嬉しくて歩き回る。つまずいて転び、痛い思いもするが、泣きながらでも、すぐに立ち上がったする。そんな時、温かい気持ちで見守っていてくれる人がいて、やさしく抱きとめたり、「痛かったね」などと声をかけたりしてあげれば、痛みも半減するのではないだのか。

 

 ときには、見ているおとなが肝を冷やすようなことも多々生じてくる。高い所によじ登って飛び降りてみたり、狭いところに入り込んだり、重たいものを持ちあげようとしたり、そのような体験をしながら、からだでいろいろ覚えていくのでしょう。そのためにも、まわりにいろいろな人が、見ていないようなふりをしながら、危険なことにならないように見ている人がいることが大きい。