日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「老い」のかたちをつくる再録

※2016年12月に書いたものだが、今年難病を抱えることになり、この病状とつき合うことで、ますます老いる・生きることについてみていきたいと思っている。

〇そういう自分でいいではないか(2016年12月記録の改訂)
 急な下り階段、坂道になると、とても緊張する私がいる。何かの加減で、ずっこけたことが数度あり、緊張の度合いが足腰の衰えとともにひどくなってきた。
 病院のリハビリなどに携わってきた娘の知人に見てもらったら、年齢相当の衰えはあるが、怖いという観念がおおいに邪魔をしていると言われた。

 階段を降りる際に、すぐ手すりにつかまれるように身体が傾いているそうである。もともと平衡感覚が弱く、姿勢が曲がっていることの自覚があり、納得がいく指摘だった。

 恐がらずに、まっすぐ降りたらいいというアドバイスはもっともだと思う。しかし、少しずつ改善はしていると思われるが、身体はこわばっているのを感じる。

 

 自分が歳をとってきたなーと思い始めたのは、身体の変調からである。丁度60歳になろうとした時期である。その頃、重度心身障害者の24時間介助グループの一員で、トイレや入浴介助では担ぎ上げたりして、ある程度体力はあると思っていたが、段差などのあるところでバランスを崩し転ぶことがあり、これはまずいなと思ったりした。

 その後、60歳の定年(便宜上のもの)を迎え、一応区切りにして、90歳を超えた妻の両親と暮らすべくI市に移住した。その後しばらくは気にならなくなっていたが、徐々に足腰に続き、耳の聞こえ、滑舌が悪くなり、そうなると、人と話を交わしたり電話に出たりするのが億劫になり、あまり話をしなくなり、それは負の悪循環となって益々ひどくなっていき。結構きつかった。しばらく福祉活動をしてきて、そんなことは慣れているはずなのに。

「この程度ならまだ出来るはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「出来なくなっている現実の自分」にはギャップがある。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 しかも、こんな自分を見せたくない、変な風に見られるのではないか、というような意識が少しでもあると、どんどん悪い方へ、より老齢化につき進んでいくようになっていく。

 

 老齢に限らず、人が自分自身に対して負の感情におちいっているときに、如何に自尊心を維持するかが一つのポイントになる。
「あきらめる」というのは「明らかに見る」ことではないかと、土居健郎が言っていたようだが、「ありのままの自分を、それなりに肯定すること」。これは大事である。
 今は、そういう自分でいいではないかと考え、人前に出て話をすることも平気になってきている。赤塚不二夫の「バカボン」で決め台詞的に使われていた「これでいのだ」である。

 

 今回は自分の例で書いてみたが、福祉関連の活動をしてきて、現社会では、ことさら「老い」をマイナスイメージにしているような気分、見方が根強くあるように思う。

 平均寿命がのび、いまだかって経験したことのない超高齢化社会の中で、しかも老齢は人としての自然現象である。若さや生産性に価値があり、老齢に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていき最後は無価値となる貧しい人生となる。

「老い」のかたち、とらえかたについて様々な角度から、焦点をあてていきたいと考えている。