日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎76歳を迎えて(たまゆらの記㊳)

○6月17日に76歳になる。

年齢は一つの目安に過ぎないが、今までを振り返り、これからを描くのにいい機会でもある。

昨年75歳になったとき、介護保険の要支援2の判定が出て、いろいろな意味で人生の大きな乗り換え駅にきているような気がしていたが、この1年を振り返ると、ますますギクシャク度が増している。

 

ものごとや自分のことを「ありのまま見る」ことは、何かを考えるための初めに自覚すべき大事なことと思っている。

難しいことだが。

 

介護関係で高齢者などに接してきて、また父母や義父母を見てきて、「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいるあるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップが出てくる。

心身がある程度健全な時は適当な折り合いをつけつつ暮らしていくのだが、身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 

だが、老齢化や病気によって身体が衰えていくのは自分で作り上げた良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れのときでも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしている。

生きるとは変化することであり、まさにそれが生命活動なのだろう。

 

わたしの場合、難病にかかり、身体運動性の思うようにできなくなっていることが増えてきて、それに見合った生活のリズムになっている。

また、できなくなることで身体への感受性も敏感になり、不安な面と不思議な面白さもある。

 

今まで当たり前に見ていたようなことが、別の角度から見えてくるような気がしている。

ものごとの捉え方・見方が大きく変化し、様々なことを味わう深みがかわってきているのも思う。

 

今心に置いていることは、今後どうなっていくのか分からないにしても、その時点での心身状態を冷静に見つめ、状況に対応する客観力が必要ではあるが、どこまでも可能性を探っていく。

 

出来なくなることに捉われず、どのような状況になろうと、今やれることに心をおいていく。 

その場合にあまり無理をしないで、面白く楽しみながらすることが大事な気がする。