日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎たまゆらの記㉒

〇「老い」を有意義に

 難病を抱え75歳になる私にとって今心に置いていることは、自分の心身状態を冷静に見つめ状況に対応する客観力が必要ではあるが、どこまでも可能性を探っていく。

 

 出来なくなることに捉われず、どのような状況になろうと、今やれることに心をおいていく。

 その場合にあまり無理をしないで、面白く楽しみながらすることが大事な気がする。

 

 心を含めて身体は、老化・疾病・障害などによって大いに影響を受けるが、それによって〈身体〉が衰えていく、ダメージを受けるというのは自分で作り上げた良い状態、あるいはその時代の一般的な基準を前提にしての思い込みであり、〈身体〉は生まれてから何れの時でも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしていて、まさにそれが生命活動である。

 

「老い」そのものは、一人ひとり違いがあるだろうが、ある段階になれば必然的に訪れるもので、逆にその時になってみない分からないことが多いというか、いろいろな見え方の異いを感じる。]

 

 60歳を過ぎたころから、特に身体に関して妙な違和感を覚えることが多くなり、「老い」について考えることも度々おこるようになる。

 どんなに割り切ったつもりでいても、身体の機能があちこち衰えているのを認めることは、心細く、寂しいものである。

 それに加えて、3年前に脊髄小脳変性症と診断され、徐々に動きもギクシャク度が増している現状である。

 

 一方で、ものごとの捉え方・見方が大きく変化した。

 そして面白く豊かにより良く生きようとしている自分も自覚する。

]

 いろんなことを味わう深みがかわってきているのも思う。

 また様々な人々に、支えられていることにも、より敏感になっている。

 

「花眼」(かがん)という言葉がある。「花眼」とは中国語で「老眼」を指す言葉で、細かいところはボンヤリしているが、かえって花全体がよく見える眼という意らしい。花が美しく見えるためには、あんまり細かいところが見えるんじゃなくて、全体がよく見えなきゃいけない。それが花眼なんだという。

 

 詩人・長田弘は「見えてはいるが、誰れも見ていないものをみえるようにするのが、詩だ」という言葉を残している。

※長田弘『アウシュヴィッツへの旅』(中公新書、1973年)より

 

 わたしたちは、実は見ているようで、見えていない大切なもの、豊かなことがたくさんあるのではないだろうか。

 

参照:長田弘の詩

・「再初の質問」  

  今日あなたは空を見上げましたか。

  空は遠かったですか、近かったですか。

  雲はどんな形をしていましたか。

  風はどんなにおいがしましたか。

  あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか。

  「ありがとう」という言葉を今日口にしましたか。

 

  窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。

  雨の滴をいっぱいためたクモの巣を見たことがありますか。

  樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ち止まったことがありますか。

  街路樹の木の名前を知っていますか。

  樹木を友人だと考えたことがありますか。

 

  この前、川を見つめたのはいつでしたか。

  砂の上に座ったのは、草の上に座ったのはいつでしたか。

  「美しい」と、あなたがためらわず言えるものは何ですか。

  好きな花を七つ、挙げられますか。

  あなたにとって「わたしたち」というのは、だれですか。

 

  夜明け前に鳴き交わす鳥の声を聴いたことがありますか。

  ゆっくりと暮れていく西の空に祈ったことがありますか。

  何歳の時の自分が好きですか。

  上手に年を取ることができると思いますか。

  世界という言葉で、まず思い描く風景はどんな風景ですか。

 

  今あなたがいる場所で、耳を澄ますと、何が聞こえますか。

  沈黙はどんな音がしますか。

  じっと目をつぶる。すると何が見えてきますか。

  問いと答えと、今あなたにとって必要なのはどっちですか。

  これだけはしないと心に決めていることがありますか。

 

  いちばんしたいことは何ですか。

  人生の材料は何だと思いますか。

  あなたにとって、あるいはあなたの知らない人々にとって、

  幸福って何だと思いますか。

  

  時代は言葉をないがしろにしている。

  あなたは言葉を信じていますか。

※長田弘(著),いせひでこ(絵)『最初の質問』(講談社の創作絵本)2013年より