日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎迷惑をかけるとは(たまゆらの記54)

○高齢者などから、「特に子どもには迷惑をかけたくない」というような言葉を聞く。

妻なしには、それらしき暮らしはできないわたしも、迷惑とはまったく思わないが、なんとか自分でやれることはやるようにしている。それは大事なことだと思っている。

 

迷惑の語源の、「迷」は本当の道にまようことを意味し、「惑」は途方にくれてとまどうことを意味する。両方の字が示すように、この言葉も本来は迷いとまどうことを意味する仏教語であるらしい。

昔は、迷惑の原因が他人の行為でも自分自身の行為でも、この語は用いられた。

次第に、他人の行為によって自分自身がどうしたらいいか困惑する意味が強くなり、現在の使われ方に変化していった。

 

迷惑について、迷惑行為や迷惑メールなど、嫌なイメージを感じるが、「子どもに迷惑をかけたくない」というのは、相手に「迷いとまどうこと」をさせたくない、余計な心配をかけさせたくないというような感情からのものもあるだろう。

親の介護の例をあげながら、迷惑について考えてみる。

 

私は15年程前に、九十歳を超える妻の両親と暮らすため出雲市に移住した。義父は他の人に迷惑をかけたくないとの気持が強く、娘である私の妻には早くから委せていたが、私に対してはだいぶ気を遣っていた。

その頃の父は日常的な行為も困難になり、入浴や排泄などで介助しようとすると、父の心理的な負担感と「自分一人でやれる」という頑張りで遠慮することが多く、危険な場面も出てきていた。

 

その時点での父はかなり困難な状態にあると見ていたが、父は身辺のことは援助なしでもまだまだ自分で「やれる・する」と思っていたようである。

この頃の父は日常的に歩行が困難になりはじめ、転んだりしたときにすぐに助け起こすのだが、父の「すまないなー」と言うその気持は素直なものだと思うのだが、相手への心理的な負い目と、自分への不甲斐なさが混じって、精神的な負担感が増していったようである。

 

それまで8年近く介護などの仕事をしていて、ケアされる方からは、遠慮のようなものはあっても迷惑をかけたくないというような感じはなかった気がする。

当然自分の方でも、義父母の介護をしていて、遠慮はあっても迷惑というような思いは全く出てこなかった。

 

私と義父とは血は繋がっていないし、娘婿とか男同志ということもあるのか、しばらくギクシャクした関係が続いた。だが徐々に、打ち解けた関係になっていき、少なくとも私に対して遠慮するようなことはなくなっていったと感じている。

「すまないなー」というような言葉も聞かれなくなっていった。

入浴や排泄の介助するときに、心身ともに全面的に任せてくれているかどうかは、身体に伝わってくる感触で、ある程度とらえることが出来るので、義父が心底任せてくれるのかどうかが伝わってくる。

 

身内に限らず、そうなったときから、単なるケアされる・する関係をこえるような何かが活性化するような気がしている

「子どもに迷惑をかけたくない」という表現ではあっても、その迷惑の意味合いはかなり違ってくると思う。

 

そして、心底任せることができない(甘えることができない)関係、迷いながら戸惑いながらも、よりよく生きていきたいと願っている人同士の、心の分かち合いがなされていない、そこまで踏み込んだ関係ができていないことで、負担感のある表現になっていくのだろう。

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以前、ブログ「わえいうえを通信」に次のようなことを書いた。

【「めいわくかけてありがとう」ということばがある。元日本フライ級チャンピオンのプロボクサーからコメディアンに転身した、「たこ八郎」の口癖で自らの“座右の銘”である。歌人・福島泰樹氏のお寺にあるお墓で、そこに平仮名で「めいわくかけてありがとう」と書いてあるそうだ。

世間では、何か重大な問題が起こると、えらい人たちが「ご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ありません」と深々と頭を下げたりするが、シラーとした印象のときが多い。

たこ八郎の、「めいわくかけてありがとう」には共感を示す人もいて、よく取り上げられる。私も面白いと感じている。どのような分かち合いなのだろう? 

ただ、妻に対しては、面と向かっては言わないが、そのような感情が出てくるときも、たまにあるような気がする。 (ブログ2015.02.10より)】

 

たこ八郎の場合は、気をかけてくれ、心の交流があった人々への、たこ流の感謝の表現ではなかったのか。