日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎2021年年頭に当たって、(「老い」や「病」と向き合う)

 みなさま明けましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

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〇病気の現状

 2019年10月、脊髄小脳変性症と診断され、3週間ほど入院した。

 その後の状況をみると、ますますひどくなりギクシャク度は増していて、ふらつきも頻度を増しているので何回か転びそうになる現状だ。

 

 居宅では何とか一人で動いているが、妻の支えなしには外出もままならない状態で、風の強い日など、歩くにも心許ない気持ちが増してきている。

 

 肺機能が悪いので感染症に対する不安はあるが、そうなったらそうなるだけと悟っているわけではないが、心配するのはつまらないと思っている。気にしていてもよくなることは望めないし、健やかな心で今やれることを大事にしながら明るく暮らしていこうと思っている。

 

 このような状態で、特に次のことに気をおいていきたいと思っている。

 一つは、今の自分の状態を冷静に見つめ状況に対応する客観力が必要ではあるが、出来なくなることに捉われず、どのような状況になろうと、今やれることに心をおいていくこと。精一杯の力を注ぐこと。

 

 もう一つは、人生を「できる」ということからではなく、「できなくなる」というほうから見つめてみること。もっと違ういのちの光景が眼に入ってくるのではないだろうか。 

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〇「老い」や「病」と向き合う。

 近年、知人・友人が亡くなったり、あるいは長期入院したりすることが増えてきた。

 

  高齢になり人が病気になったり亡くなったりするのは致し方のないことだが、その人との関係が深いと、いろいろな思いがわいてくる。自分もそのような状態に近いこともあるだろう。今すぐという気にはなっていないが。

 

 〈老い〉は意思、思い入れと身体の運動性との乖離が大きくなる特徴がある。感受性、思考力、想像力、欲望など衰えるわけではないので、身体運動性と「思い入れ」のバランスが肝要になる。使わなければ衰えていくので匙加減もいる。

 

 3年前に亡くなられた吉田光男さんの「病床妄語」に、次の文章がある。 

「失って初めて、そのものの重要性がわかる。逆に言えば、失わないうちはなかなかそれに気づかない。凡人のあわれなところだ。耳が聞こえなくなって初めて耳の機能がわかるし、食事が普通に食べられなくなって初めて、口や食道や胃の腑の働きに感謝の念が起きる。極論すれば、死んでみなければ生の本当の意味はわからないのかもしれない。」

 

 わたしの場合、難病にかかり、身体運動性の思うようにできなくなっていることが増えてきて、それに見合った生活のリズムになっている。だが、できなくなることで身体への感受性も敏感になり、不安な面と不思議な面白さもある。今まで当たり前に見ていたようなことが、別の角度から見えてくるような気がしている。

 

 福祉関係の活動をしてきて、ある機能を失うことで、かえって豊かな思考や感性を培う人たちにも沢山触れてきて、「老い」や「病」というものとじっくり向き合っていきたいと思っている。

 

 

 参照:エリック・ホッファー『魂の錬金術』の「人間の条件について」より。

〈人間は「この世の弱きもの」として生まれたが、「力あるものを辱めるため」に進化した。------病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。----〉と、いささか強引な人類史へのアフォリズム(評言)があり、気にかかっています。それほど大仰にならなくても、かってなかった超高齢化社会の渦中にある当事者のささやかな「つぶやき」の蓄積が,少しは次の人々への励ましになるのではと思っていて、自身の状態をつぶさに見ながら、気が付いたことを発信していきたいと思っている。