日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

「凸凹のためのこころがまえ」2(子育ちアイリス通信7)

※今回は先回に続いて、三木 崇弘著『リエゾン-こどものこころ診療所―凸凹のためのおとなのこころがまえ』から見ていく。

○子育てのコア~思考の軸~

まず何よりも、子育ての「思考の軸」―「信念」「将来像」「子育ての目指すところ」など、長期的な展望を持つことの必要性を著者は述べる。

それがないと、日々の出来事に右往左往することになる。

 

そして、著者は次のことをいう。

《大人としては、子どもにはいろんなことをきちんとできて欲しいもの。ただ、情報が溢れる現代に、それら全てを実現するのは不可能です。それなら、自分たちが子育てで大切にしたいものをしっかりと見つめて、それに沿ったものを大事にしていきたい。そのためにはそもそも、自分たちがどこに向かって子育てしているのか、振り返ってみる必要がありそうです。》

 

現代は子育てに関する情報がとても多い時代で、子育てに関する知見がたまっていき、「こうすればよくなる」「あれはやっちゃだめ」「これはこうしなくちゃいけない」という「正解と不正解」が大量に世の中に広まっている。

そして、頑張ってそれに取り組んだ結果、疲れてコンディションが悪化し、子どもへの関わりの質が落ちていくことが往々にしてあると著者はいう。

 

「子育て」のほとんどのことに、「正解と不正解」はないとわたしは考えている。

子育てに関する情報の中には参考になることもあるし、大いに活用したらよいが、それよりも、目の前に生きている子どもの状態をキャッチするセンサーのようなものを常に敏感にしておくことが大事だと私も思っている。

 

そのセンサーについて著者は次のように述べる。

《そのセンサーからの信号は、「何となく気になる」「いま、こうしたほうがいい気がする」という感覚的なものとして訪れると思います。それは親が日頃から子どもを見て、向き合っているなかで蓄積された膨大な情報から出てきたものであって、ある意味、そこには認知的な判断があると言えます。だから全くの見当違いにはならない、というのが僕の持論です。勘や虫の知らせといわれるものも、たくさんの情報と経験値があってこそ働くものでしょう。

もちろんどうしても無理な時もあると思いますが、ここぞという時を逃さず、ぐしゃぐしゃにつき合ってもらえたことが子どもにとっては何よりの安心となることを、頭の片隅に置いてみてください。》

 

なにがあろうと、親身になって子どもをみていくことが肝要だと思う。

この子は困った子だと思えば各種の態度に現れるだろうし、感情的なゆらぎはあるにしても心の底に基本的な信頼感を置いていれば、そのような態度で接するだろう。

 

ときには、「それはダメ!」「そんなことはしないよ」など、厳しく制止しなければいけない場面が必ずあり、子どもがその人に信頼感・安心感を抱いていれば、その時点ではよく分からないことがあるにしても、ややこしいことにはならないと思う。

 

ひとを幸せにするもっとも大事なことは良質な豊かな人間関係であり、乳幼児期の重要課題として基本的信頼感の構築をあげている人も多い。

このことは乳幼児期に限らないだろう。

 

人間関係でよく思うのは、こちらが好ましい人だと思うと相手もそのように思っていることが多いし、嫌いなあるいはヘンな人だと思っているときは、相手もそのように思っていることが多いのではないか。

質の良い人間関係は双方的なこころの交流だと思っている。

 

また、著者は次のことを言う。

《性格や個性といったものは、お子さんの発達特性と、出会う人、環境、経験の相互作用によってつくられてゆくものです。(中略)

子どもをどんな環境に置きどんな経験をさせようか考える時に気に留めて欲しいのが、「マッチング」です。子どもの性格や凸凹に合わないことを無理に当てはめようとすると歪みが生じ、のびのびとした成長を妨げることになりかねません。(中略)

こんなふうに育ってほしい、これに夢中になってほしいと親がどんなに思っても、子どもにとって合う/合わないものが絶対にあるのです。》

 

情報が溢れている中で、「あるべき理想の姿を」求めがちになるが、子どもが本当に望んでいることを、しっかりと見極める必要がある。

発達に凸凹がある子の場合、同年齢の子がなにげなく出来ていることが、出来ないことが多くある。それに対して本人よりも周りの人たちが問題視することがある。

 

なんでもそれなりにできることが、良いことではとは、わたしは全く思わない。

まして、自己責任のような自立主義的生活規範を少しもよいものだと思っていない。

わたしは、ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。

この相互扶助こそが共同社会の基礎となるべきだと思っている。

 

例えば、アクシデントに遭われた大谷翔平選手の場合、野球に関してその追及心は並々ならぬものを覚えるが、お金の管理について不得手というか全く無関心である。

そこで今回のようなアクシデントに遭ったのだけど、だからといって、お金の管理などはそれの得意な人にやってもらい、その分、野球を極めて欲しいと、わたしは思っている。

 

大谷選手とは比較するものではないが、どの子にも、その子の得意とするものあるいはその子の待っている独特な味があり、それを充分に発揮してほしいと考えている。

基本的には、その子の合うもの、得意なこと、関心の高いものに焦点を当てながら、さまざまな経験をして、その子のもっている独特の味わいを発揮して欲しいと思っている。

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※三木 崇弘著『リエゾン-こどものこころ診療所―凸凹のためのおとなのこころがまえ』(講談社、2023.1)

放課後等デイサービス「アイリス」ホームページ

https://www.gurutto-iwaki.com/detail/2748/index.html