日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎たまゆらの記④

〇出発点をどこにおくか

 身体のあちこちが衰えていく、いままで何気なく出来ていたことが出来なくなることが増えていくなどして「老い」の意識が生じる。

 

 成長期・壮年期ならともかく、「老い・高齢」の段階ではよくなることを望めないだけでなく、ほとんどの場合、ますます衰えるようになる。

 

「老い」に至る身体状態は体質や生活習慣もあると思うが、大きくは遺伝子由来のもので、コントロールできることには限界がある。

 

 したがって、どのように「老い」と折り合いをつけるか、心の健康というか持ち方が大事になる。

 

 以前私は、視覚障害者の同行援護従業者(ガイドヘルパー)をしていたことがあり、そのときの視覚障害者の動きに、感心することがよくあった。

 研究によると、そのような人は脳の視覚野が活性化しているそうである。

 

 図式的に見ると、視覚障害者でも生まれながらあるいは幼い頃から目が不自由な方と、あるていど大きくなってからの中途視覚障害者の大きく2通りにわかれる。

 

 むろん一人ひとりに違いがあるが、視覚障害に限らず、中途障害者の一つの傾向でもある。

 

 先天的な障害者の場合は今ある体の状態から出発するが、中途障害者の場合、「以前のようにできなくなってしまった」「惨めなことになった」というような心理が働き、それに引きずられたり捉われたりする場合もある。

 

 マイナス感情のない今の身体状態から出発するのか、過去の「できたこと」を引きずりながら出発するのか、大きな違いになる。

 

 どのような状況になろうと、どの人も持っている可能性を発揮するためにも、出発点は大事だと思う。

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〇今の「ありのまま」を見る。

 心身状態に拘らず、ものごとや自分のことを「ありのままを見る」ことは、何かを考えるための初めに自覚すべき大事なことと思っている。

 

 50歳を過ぎてから介護など福祉関連の活動を始めてから、さまざまな高齢者や障がい者に接してきて、自身の今の状態を「ありのままを見る」こと、あるいはその人自身の心身状態との折り合いを付ける〈受容」することの大事さを感じていた。

 

 60歳代になって、あちこち身体的な衰えを感ずるようになり、なんとなく落ち着かない気分の増えてきたこともあり、そのことをより一層感じるようになった。

 

 介護関係で高齢者に接してきて、また、父母や義父母を見てきて、「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップが出てくる。

 

 心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 

 他のだれかに言われるまでもなく、自分自身によって自己評価が下がることが、もっともつらく、受け容れ難いのだろう。

 

 このことは高齢者に限らないが、特に高齢期は身体的な衰微が目に見えるように進むので、それに伴って精神的な不安感がさし迫ってくるようだ。

 

 しかし、老齢化よって身体が衰えていくというのは自分で作り上げた一番良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れのときでも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしている。

 

 過去の自分というのは、現在の自分から見たら「他者」のようなものだともいえるのでは。生きるとは変化するということであり、まさにそれが生命活動なのだろう。

 

 今の私は歩くこともままならないが、体の状態を冷静に見つめ、状況に対応する適応力を失わず、できなくなることに捉われず、どのような状況になろうと、今やれることに心をおいていくことを大切にしたい。