日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎母の日に思う(たまゆらの記㉟)

〇父母のこと

母の日に、娘夫婦の三人の孫に対する心配りや孫たちの父母に対する絶対的ともいえるような信頼を感じ、改めて私の父母のことを考えた。

今の私は、〈安心〉と〈信頼〉で支え続けてくれた人として母や父を考えている。何はともあれ一貫して受け入れて貰ってきた「安心感」と、どのような状態、状況にあろうと父母からの「信頼感」のようなものを覚え、そこに甘え続けたともいえるかも知れない。

 

 私は20歳前に家を離れ、その後、自分の思うまま自活しながら暮らし始めた。実家に帰ることもあまりなく、父母に相談をしたこともほとんど記憶にない。

 27歳のとき、ある共同体に関わり始め、そこに参画することになる。それに対し、父はその団体に拒否反応はあったが、母はお前が決めたところなのでと受け入れてくれ、やがて、そこの講習会にも参加した。

 

 父は亡くなるまでそこを否定していたが、そのこととは関係なく、私に対しては、母と共に信頼をおいていたのではないかと勝手に思っている。

 ごくたまに会うと、二人ともとても喜んでいるのを感じて、私もほっとくつろぐものがあった。父母にわだかまりを覚えたことの記憶もあまりない。

 

 2001年に25年程在籍していたそこを離れた。その頃仲間たちの離脱も続いていて、その人たちの支えもあったが、母をはじめ兄妹たちのその後の生活をいたく気にかけてくれるのが伝わってきて、そのような励ましが大きな力となったと思っている。

 父は既に亡くなっていて、母は老人施設のお世話になっていた。自分のことよりも、子どもである私に、なんとか支えになっていきたいという思いに溢れていて、このような父母によって、育てられてきたのだとしみじみした思いにかられたこともある。

 

 様々な家族、親子の在り様があると思うが、自分の場合は、遠慮気兼ねの全くいらない、大いなる安心の拠り所として機能していたと考えている。そして、それが最も大事にしたいこととも考えている。

 

〇忘れられない母の思い出。

 6歳頃まで、ことばが使えなくて、人からは知恵遅れではないかと言われていたそうだが母や叔母さんは、この子は大器晩成だと言い続けていたそうだ。

 私にとって印象に残る物語化しているだろうエピソードがある。

 

 幼稚園の卒園に向けて、同期の仲間で、さるかに合戦をすることになり、「クリ」の役をすることになる。どの役をするのか皆でワイワイやっていたが、私の場合は、セリフがほとんどないので、すぐに決まる。

 さるかに合戦は「サルをこらしめるために、囲炉裏に潜んでいたクリがパチーンとはじけて、サルのお尻にぶつかる」というような場面がある。そのクリの「パチーン」と大きな声を出すのが幼稚園の先生が用意した唯一のセリフだったと思う。

  当日は緊張しながら、声を出す。

あとで母が、あの「パチーン」は「とても良かったよ」と言ってくれて、嬉しかった記憶がある。