日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎〈生き抜く〉ことへの信頼感を培う(岩崎航のエッセイなどから)

〇岩崎航エッセイ集『日付の大きいカレンダー』から
・「僕にはもう夢も希望もないよ」
茫然と無感動な日々に流されていた頃、ぽつりと母に言ったことがあります。たんなる恨み言や愚痴というよりも、ごまかしようのない命の奥底からもれた呻きだったと思います。それに対して母が返した言葉もまた静かなものでした。
「お母さん、かなしいな」

 かなしいな。たった五文字のこの言葉とその静かな声の響きは、今でもありありと心に残されています。親不孝をしたと思います。
 我が子が人生に対して夢も希望もないとつぶやき、絶望に覆われている姿を前にして母は何を思ったでしょうか。
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悲しむと
知りつつ
叫ぶ
夕立が
降っている

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何にも言わずに
さすってくれた
祈りを込めて
さすってくれた
決して 忘れない
——–
『点滴ポール ~生き抜くという旗印』にも、母親とのエピソードに触れている。

 岩崎さんの母についてのエッセイを読んで、乙武洋匡氏の逸話を思い出す。

【『五体不満足』から、その一部を見ていく。
「ひとりの赤ん坊が生まれた。元気な男の子だ。……先天性四肢切断。分かりやすく言えば、『あなたには生まれつき手と足がありません』という障害だ。……(出産直後)の母親に知らせるのはショックが大きすぎるという(病院側の)配慮から、母とボクは一ヶ月間も会うことが許されなかった。……対面の日が来た。その瞬間は、意外な形で迎えられた。
(胴体にジャガイモがコロンとくっついているような体)に『かわいい――』母の口をついて出てきた言葉である。……母がボクに対して初めて抱いた感情は、驚き・悲しみではなく、『喜び』だった。生後一ヵ月、ようやくボクは『誕生』した」(日々彦要約)と書いている。

 乙武氏にとって、この母の言葉が、明るい生き方の原点となる。あとがきで、「五体が満足だろうと不満足だろうと、幸せな人生を送るには関係ない。そのことを伝えたかった」と述べている。(乙武洋匡『五体不満足』講談社、1998年)

 穿った見方をすれば、その場のことは、赤ん坊の乙武氏には分からない筈である。後から聞いた話をもとにした物語ともいえる。
しかし、そんなことはどうでもいいので、乙武氏の中では実際にあった話であり、その後の生き方を左右する原点である。(2015年2月8日のブログから)】

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〇特別な人の話にとどめておくことはしないでおきたいので、あえて私のことにも触れる。
 私が両親、特に母に支えられていたことを、まじまじと感じたのは「内観」研修である。
 小さい頃、ことばはまともに喋れず、動作もかなり鈍かったそうで、同年齢の子たちの動きにもついていけないことが多かったらしい。

 両親や叔母はとても可愛がってくれ、特に社交的な母は、会う人ごとに「この子は大器晩成で、将来は楽しみにしている」というようなことを言い続けていたそうである。

 私も、それを時々聞いていたこともあり、友達と遊んでいても、ちぐはぐな動きも多かったのではないかと思うが、劣等感を抱くようなことは全くなかった。そもそも比較意識そのものがなかったと思う。何かとぐずぐずしていたので、「ぐずまさ」と呼ばれていたが、そんなことも、親しみを込めているように感じていたので嫌な思い出がない

「内観研修」で、それらのことをつぶさに振り返ったときに、本当に恵まれていたんだとしみじみとしたことがある。そのことは自分の育ちに大きな影響をもたらしたのではないかと思っている。

 子どもが育っていく中で、生きる(生き抜く)ことへの信頼感が培われていくための、親(親代わり)の存在の大きさを思う。この信頼感は、単なる親子の関係を超えて、人としての大事なことがつまっているのではないだろうか。
 どんなことが子どもに入るかは、一様に決められないが、ことばを超えた心のやりとりが、その後の育ちに多大な影響を及ぼすのではないだろうか。

 子どもだけではなく、どのような段階の年齢に関わらず、人が成熟していくのに、様々な人とのことばを超えた心温まる関わりの相乗効果が大きいのではないかと思っている。

参照・岩崎航エッセイ集『日付の大きいカレンダー』写真:齋藤陽道、(ナナクロ社、2015)

・本ブログ◎どの人にも無限の可能性がある(乙武洋匡氏から)(2015-02-08)

・本ブログ◎子どもや若者の育ちを支援する場を(2015-02-09)