日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「共感力」と「共食」

〇共感力と共食から思うこと①

 NHKスペシャルの〈食の起源第5集「美食」〉で、「共感能力」が人々の「食」の成り立ちに大きな影響を及ぼしているとのことから、「共食」のことを思った。

 

 昨年3週間の入院から帰ってきて、普段ほとんど意識することはないが、妻と食事するのはことさら楽しいと思った。

 病院では一人でモクモクと食べる。普段と違ったメニューや味付けなどに面白さを感じ、限られている暮らしのせいか、味気ないことどころか楽しみではある。

 しかし、気の置けない人との「共食」は格別いいものだなと思う。

 

 孫と食事機会もあり、まだ1歳4か月なので、そのお相手をする妻はあわただしい様子で,自らの食事を味わうどころか、落ち着いて食べていないようだ。

だが、気楽に見ている私から見て、孫の旺盛な食欲には「おやまあー」と思うこともあるが、見ていて頼もしい。

 

 母や見守り手と子の関係は、乳を飲ませ、糞便・尿の始末をすることから始まる。やがて、世話をしながら共に食べ、そのための仕付けをしていく。その過程で、親密さと信頼という人の社会的関係の礎となるものが育まれると思っている。

 

〇共感力と共食から思うこと②

「天麩羅は揚げたてにかぎるなー、家で食べるのは何年ぶりかなー」

 10年程前、私たちが義父母(以下父・母)と暮らし始めて、父は同様なことを再三洩らしていた。九十歳を越えた二人での食生活は、近くのスーパーで惣菜を買ってくるか、福祉サービスの仕出し弁当に頼っての生活であり、母は調理するのが大層億劫になっていて、普段は簡単に済ましていたようだ。娘である妻の料理を、何かと父は「こんなのしばらくお目にかかっていないなあー」と、毎度の食事を楽しみにするようになりました。

 

 一緒に暮らし始めてから、父は他の人に迷惑をかけたくないとの気持が強く、娘である私の妻には早くから気を許していたが、私にはかなり長い間気を遣って遠慮していた。

 共に食事をしながら、いろいろな話を交わすことが、より打ち解けた関係になるのに大きな役割を果たしたのではないかなと思っている。

 

 食べることは、人が生きていくための核になるもので、栄養があり安全で食べやすいというような基本機能だけでなく、心からみたされていく「食の楽しみ」が、よりよく生きていくための原動力になっている。

 また、人は他の人と共に楽しく食べるという習慣や機会を大事にしてきた。

 

 このことは、介護の現場でも同じようなことがいえる。身体的に衰弱が激しい人や闘病中の人にこそ、心が満たされるような食生活を送り、生きる力を養ってほしいし思う。

 義父のような終末期の人には、「おいしく食べる」ということが、「より良く生きる」の中で比重がかなり大きくなったと思う。その美味しさは、食べることへの慈しみと、共に食べる人との醸し出すものによって、より一層増してくるのではないだろうか。