○生命のもっている可能性
「たまゆらの記⑨」で次のことを述べた。
〈失ったものを嘆くよりも、そのことでかえってある機能の可能性が拡がることに気をおいていきたい〉
それについて、以前にブログで触れた館野泉さんのことを思った。その一部を改訂再録する。
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▼ 館野泉さんのこと
2002年、国際的ピアニストとして演奏活動を行っていた舘野泉さんは、コンサート中に脳出血で倒れ、右半身不随となるが、2004年「左手のピアニスト」として復帰以後、演奏会、録音ならびに新作委嘱などを通して、左手ピアノ曲の普及に努めている。その美しく豊かな表現は、両手奏法に引けを取らないばかりか、新しい演奏法を編み出し、多くの人に感動をもたらしている。
7年前、私たちはその演奏会を聴きに行った。最初左手だけで弾くことに少しとらわれて聴いていたが、和音も旋律も左手で弾く、というよりも身体全体を使って弾いている姿、合間での話を含め、すっかり魅せられてしまった。
左手だけでの演奏を考えたとき、ほとんどの人が反対したそうだが、できるか、できないかではなくて、やりたくなって始めたところ面白くなって、だいぶたってから左手だけというのは難しいなと思ったそうだ。
ピアノを弾くのは脳、呼吸、足などはもちろん全身を使うので、「音楽の本質を伝えるのに、両手も左手もない」という。
また、次のような言葉がある。
《「あれができないこれができない、と落ち込むのはもったいない 積み重ねてきたものは 何があっても奪われない」
・「見た目だけで、二本の手で弾くピアノを一本で弾くと考えないでほしい。左手で演奏する独立した楽器だと思ってほしい。左手は、両手の半分ではない」》
※舘野泉『命の響』(集英社刊)、館野泉・中村桂子対談『言葉の力人間の力』、(佼成出版)など参照。
5本の指しか使えないというのは、指は10本あるのが「普通」という前提からくる制約で、指が10本しか使えないというのも制約である。
この「普通こうである」という前提が制約になって、人(身体)のもっている可能性、自由度を阻害していることも多いのではないだろうか。
人が鳥のように空を飛べないという制約から、発想を展開し飛行機が発達したように、科学技術はそのように可能性をのばしてきた。ものの発達は人の心のありようから促されてきたともいえる。
これについて、館野泉さんのコンサートに触れながら鷲田清一は次のように述べている。
〈ひとが不断に息を継がねばならないのと、ついに空を舞うのができないのと、同じように。問題はそこで何をつきつめるかだ。そこに何が訪れるかだ。そのとき、制約はもはや限界ではなく、ひととその歴史を超えたある新しい価値のかたちとなる。ある時代、ある場所、ある両親の下に生まれたことが、そのひとが生みだす「作品」に厚みをあたえるこそすれ、もはや「制約」でもなんでもないように。
このように、ひとはdisable(無力「無能」にする;〈人を〉身体障害者にする;〈人から〉(…の)能力を奪うなどと使われる)な状態のなかで、人間であるということの条件により深く向き合っている。(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書、2010より)〉
「できなくなる」、「失っていく」、「衰えていく」ことで、別の機能が活性化する、感度が鋭くなっていく、これまでの見方が変容するなど、自分のことも含めて多くの人に感じてきた。
館野泉さんは、ほとんどの人が反対するが、「できるか、できないかは考えない。やりたいか、やりたくないか、やりたいと思ったら もう駆け出している。」と左手だけの演奏をはじめ、新たな可能性を次々と広げている。
心を含めて身体は、老化・疾病・障害などによって大いに影響を受けるが、それによって〈身体〉が衰えていく、ダメージを受けるというのは自分で作り上げた良い状態、あるいはその時代の一般的な基準を前提にしての思い込みであり、〈身体〉は生まれてから何れの時でも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしていて、まさにそれが生命活動である。
人は精神的に明るい積極的な状態であれば、どんな時でも病気や衰えを生きているわけではなく、たった一度のその人「今」の人生を生きている。〈身体〉はいつでも、より良く生きようと活動しているわけで、制約をかけているのは前提にとらわれている観念ではないだろうか。
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現在わたしは、次のことに気をおいていきたいと思っている。
今の自分の状態を冷静に見つめ状況に対応する客観力が必要ではあるが、どこまでも可能性を探っていく。
その場合にあまり無理をしないで、面白く楽しみながらすることが大事な気がする。