日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「考える」ことは「やる」ことより大切

〇新型コロナウイルス関連の報道に触れて、困難な状況の中で「生きる」ことについていろいろ思う。ここのところ自分自身の身体のことや親しく関わった友人たちの状態など身近な課題になっていることもある。

 いろいろな困難を乗り越えて、あるいは抱えながら今に向かい合う人、明日に向かっていく人、一方、年齢に応じて心身ともに困難が増してきて、悶々とした日々を送る人、「死んだ方がましだ」と思いながら暮らしている人などに対し、いずれにもさまざまな思いが出てくる。

 なにかと「早くお迎えに来てほしい」と言っていた晩年の母や、九十歳を超えた義父母と介護しながら暮らす日々、仕事としてさまざまな困難を抱えた人にかかわるなど、折々にどのように関わったらいいか模索しながらきたが、七十歳を超えて自分のことになってきた。

 近来、身体が思いとちぐはぐになることがあり、あちこち歪みが出てくるようになる。春一番や今日のような大風に会うと、足元がおぼつかなく車には緊張する。また「想像力で感じていること」と、それを「実際的に活動に結び付けること」とのあいだの距離がますます大きくなっている。災害など駆け付けたいことや友人の近況を聞いて、いきたいと思ってもすぐに行動するとはならない現状だ。

 私たちは、遺伝子の振る舞いから見たら、母親の胎内で受精した瞬間から死に向かって歩み始めるらしい。しかも一瞬先のことは誰にもわからない。

 しかし、生まれてからかなりの年齢に達するまでは、意識としては、いつでも明日に向かって道が開かれていると思い込んでいる。その道には幾多の分かれ道があり、ある時は迷いながらも、前に向かって道が伸びていることに疑いを抱くことは少ない。幼年期・少年期から青年期にかけては、その道が大きく広がっていて、働き盛りといわれる壮年期にも衰えることはない。

 ところが、ある段階に来ると、道がかなたに伸びているとはとても思えなくなってくる時期が来る。そして、人生という道がやがて行き止まりとなるとの意識が段々強くなっていく時期が来る。それが、私の母のように晩年期の特徴の一つと言えるかもしれない。

 また、私たちの一般的な季節感では、春は生命の息吹が芽生え、夏は生命が躍動し、秋は生命の豊かな実りを迎え、そして冬は来るべき春に備えて生命のエネルギーを蓄える時というイメージがある。しかし、人生の季節では、向老期、老年期は秋から冬になる時期だが、巡ってくるべく春があまり描けないのである。しかもそれが何時まで続くのかわからない。

 もちろん人生の段階の分け方にはいろいろあるし,年齢を加えていくほど個人差が大きくなると思われる。一人一人の人生観も大いに異なっているので、その晩年期、老年期と言われているものをはっきり区分けするのは大変難しいし、そのイメージにもさまざまあるだろうとは思う。

 福祉活動する中で、死の間際においても、柔軟で心の豊かな高齢者にも触れてきたし、情報としても、感心するような敬愛するような話を聞いて、自分もささやかでもそういう生き方をしていきたいとは思っている。

 本質的に、人間は良く生きたいという本能を強くもっていると思われる。どんなに年を取ろうと、どんなに重い病気になろうと、どんな苦境に立とうと、「良く生きたい」という気持ちは簡単にはなくならないはずである。

 歳を重ねることで、むしろこの身体の状態であるからこそ見えてくることもあるのではと思う。「やる」ことは「考える」ことより大切だとおもわれがちだが、わたしはそんなことは信じていない」という晩年期の吉本隆明のような人もいる。

 今の自分のできることは、想像力や考えようとする意欲はあるので、まずは柔軟に頭を使うことだと思う。そのためには、関心を持つこと、興味を抱くことを大事にするし、野次馬的な関心事はほどほどにして、整理していきたいし絞っていきたいと思っている。