日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎コロナ禍と社会的共通資本(宇沢弘文『社会的共通資本』から)

〇5月2日放送の「BS1スペシャル 欲望の資本主義 特別編「コロナ2度目の春 霧の中のK字回復」の中で、宇沢弘文『社会的共通資本』の理論が大事であるという論者が何人かいた。

 

 現在、新型コロナ感染症で世界の人々の生活が大きく変化し、金融危機以降に広がってきた資本主義を批判する論調はますます高まっている。そうした中、宇沢の『社会的共通資本』の概念が注目を集めているという。

 

 宇沢は「資本主義も社会主義もどちらも人間の尊厳や自然環境に対する配慮が足りない」と述べ、経済思想家・J.S.ミルの提言した“定常状態”、経済成長をしていなくても、その人々の生活に入り込むと豊かな生活が営まれている、そんな社会を支えるのが社会的共通資本であるとしている。

 

 経済成長と人間の幸せが相関しない時代に入った今の日本や世界の多くの地域で、この理論が共感を呼ぶようになってきているらしい。

 

 どのような社会形態をとろうと、『社会的共通資本』の理念は必須のものとわたしは考えている。

 むろんどのように実現するのかは、いくつか課題はあるにしても。

 

 社会的共通資本とは、経済学者の宇沢弘文氏(1928-2014年)が提唱した理論で、宇沢は次のように述べる。

 

《社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。(-----)

 

 社会的共通資本は、たとえ私有ないし私的管理が認められているような希少資源から構成されていたとしても、社会全体にとって共通の財産として、社会的な基準にしたがって管理・運営される。(-----)

 

 したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。

 

 社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。》

(宇沢弘文、『社会的共通資本』(岩波新書、p4~5)

 

 社会的共通資本は、自然環境(大気、水、森林、河川、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)という3つの範疇にわけて考えることができ、大気、道路など具体的に何を含むかは、それぞれの地域や国の自然的、歴史的な要因などによって異なる。

 

 こうした社会的共通資本は、社会の共通の財産として、社会的な基準に従って管理されなければならないと宇沢氏は言う。

 

 医療や教育、農の営みなど社会が機能するうえで本当に必要なものが明らかになり、そうしたものは市場というシステムからはなかなか見えづらく、利益至上主義で考えないということの重要性が経済専門家をはじめ多くの方に認識されている。

 

 教育は、子どもたちが持っている資質を伸ばすことを、また医療は病気やけがの人を助けるもの。どちらも一人一人の市民が、人間らしい生活を営むために重要な役割を果たすものなので、国家によって官僚的に支配されたり、市場の基準によって利潤追求の対象にされるべきではなく、職業的専門家によってその知見や規範に従い管理・維持されなければならないとされている。というのが宇沢氏の考え方。

 

 宇沢理論の興味深い点は「専門家・職業人」を社会的共通資本の管理運営において政府や市場の上位に置いているところである。

 この原則を宇沢は「フィデュシアリー (fiduciary) の原則」と呼ぶ。

 Ficuciary とは「信用・信託」のことである。

 社会的共通資本の管理者は市民に直接委託され、市民に対してのみ責任を負い、その利益だけを専一的に配慮するものでなければならない。(内田樹の研究室2009-05-12参照)

 

 農の営みについては、次のように述べる。

《農の営みが、人類の歴史でおそらくもっとも重要な契機をつくってきた。将来もまた基幹的な地位を占めつづけることは間違いない。農の営みというとき、それは経済的、産業的範疇としての農業をはるかに超えて、すぐれて人間的、社会的、文化的、自然的な意味をもつ。農の営みは、人間が生きてゆくために不可欠な食糧を生産し、衣と住について、その基礎的な原材料を供給し、さらに、森林、河川、湖沼、土壌のなかに生存しつづける多用な生物種を守りつづけてきた。それは、農村という社会的な場を中心として、自然と人間との調和的な関わり方を可能にしてきた。どの社会をとってみても、その人口のある一定の割合が農村で生活しているということが、社会的安定性を維持するためにも不可欠なものとなっている。》(同書)

 

 

 医療について、宇沢は次のことを述べる。

《医療を「社会的共通資本」として考える時、「政府」はすべての市民が保健・医療に関わる基本的なサービスを享受出来るような制度を用意する責務を負うことになる。

 

 しかし、医師・看護師などの職業的専門家や医療施設・医薬品など、国民経済全体にとって利用しうる希少資源の量は限られたものであって、各市民の必要とする保険・医療サービスを無制限に提供することは出来ない。

 

 よって、何らかの社会的基準に従ってこの希少資源の配分が行われる。この社会的基準は、決して官僚的に管理されるものであってはならないし、また市場的基準によって配分されるものであってもならない。

 

 それはあくまでも、医療にかかわる職業的専門家が中心になり医学に関する学問的知見、医療にかかわる職業的規律・倫理に基づき管理されるべきものである。そのためには、同僚医師相互による批判・点検を行う Peers' Review などを通して、医療専門家の職業的能力・パフォーマンス・人的資質などが常にチェックされるような制度が整備されていることが前提となる。》

 

 いつでもどのような人でもどのような状況であろうと、しかるべき医療が受けられるという安心感は金銭的なものに還元はできない。

 

 大事なものは市場的基準や金銭に換算することはできない。そんな当たり前の視点から「社会的共通資本」という概念が生まれた。

 

 内田樹は次のように述べる。

《私が日本社会の弱さと思うのは「社会的共通資本」という概念が定着していないことである。

 社会的共通資本とは人間が集団として生きるためにそれなしでは生きてゆけないもののことである。海洋・森林・河川といった自然環境、上下水道・交通網・通信網・電力などの社会的インフラ、そして行政・司法・教育・医療などの制度資本がこれに当たる。これらの制度設計・管理運営は専門家が専門的知見に基づいて、理性的かつ非情緒的に行うべきものであって、政治と市場はこれに関与してはならないとされる。

  別に政治イデオロギーはつねに有害であるとか、金儲けは悪であるとか言っているわけではない。政治と市場は複雑系だという話である。

 

 複雑系ではわずかな入力の変化が巨大な出力変化をもたらす。政治と市場に人々が熱狂するのは、予測もしなかった急激な変化が連続的に起こるからである。変化が好きな人間には深い愉悦をもたらす。

 

 だが、社会的共通資本においては、わずかな入力の変化でめまぐるしく変化することよりも、定常的であることが最優先される。政権交代したら水道が出なくなったとか、株価が下がったので学校や病院が閉じたというようなことがあっては困る。

 

 医療という制度資本にかかわる感染症対策では、専門家が専門的知見に基づいて管理すべき事案であって、ここに内閣支持率や株価が関与することは許されない。》

(内田樹の研究室「コロナウィルスと社会的共通資本」2020-02-29より)

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参照①占部まり「宇沢弘文の「社会的共通資本」が今、響く理由」(東洋経済2020/10/30)

 https://toyokeizai.net/articles/-/384561

②note:「社会的共通資本」とは何か。【医療経済学の基礎知識】伝説の経済学者・宇沢弘文の偉業の要約的解説(森田洋之、2018/12/14)

 https://note.com/hiroyukimorita/n/n5c1734acb33a