日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「相互扶助的共同体」が成り立つ気風

 ※先回の投稿「先行世代から後続世代」に若い友人K君から次のようなコメントがあった。

「パプアニューギニアを見ていると、オーストラリア中国日本などを追い掛けているようです。日本のようにならなくたっていいのだよ、なってはいけないって、よく思うのですがね。」 

 

〇内田樹『ローカリズム宣言』は、資本主義に先はない、と「直感」した青年の一部、「経済成長モデル」に疑いを持つ青年たちが、近年、地方へ「ターン」し始めている。というような動向を踏まえて、あらゆるものが商品化され、「お金」に一元化されていく風潮に対し、具体的に自らの実践も紹介しながら「ローカリズム」と「相互扶助的共同体」というプランを提出している。

 この面から取り上げてみる。

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 2011年に大学を退任した内田樹は神戸に「凱風館(かたくなな心を開く広場)」を開いた。それは合気道の道場であり、住まいでもあり、「私塾」でもある。同時に三百人の「相互扶助活動」のハブともなっている。

  

〈先行世代から受け継いだものを後続世代に引き継いでゆく、そういう垂直系列の統合軸を持った相互扶助・相互支援的な共同体が、もう一度、たとえ局所的にではあれ再建されなければならないと思います。その共同体の最優先の課題は、子どもを育てること、若者たちの成熟を支援することです。〉(『街場の共同体論』p200)と述べている。

 

『ローカリズム宣言』では凱風館のことについて次のように記録している。

〈メンバーそれぞれが、自分の持つ特技や情報(※農漁業、育児、IT,医師等)によって共同体にサービスを提供してくれます。そうやって凱風館では、実に活発な交換が行われています。でも、そこには貨幣が存在しない。凱風館で行き来している財貨やサービスは、これらを市場で購入しようとすれば、それなりの代金を支払わなければならない質のものです。でも、ここでは貨幣は用いられません。受け取ったサービスに対して自分がいつか、自分が得意とする分野の仕事で「お返し」をすればいい。そういうルールになっている。貨幣が動かないので、凱風館で行われている経済活動はGDP的にはゼロ査定されます。------- 

 凱風館が小さいなりに非市場経済、非貨幣経済の場となりえているのは、ここが教育共同体だからです。(69p)〉

 

 続けて次のことを述べる。

〈私たちが享受しているもの、この社会制度も、言語も、学術も、宗教も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、僕たちが自力でつくり上げたものなんか、ほとんどありません。ですからこれをできるだけ損なうことなしに未来の世代に手渡さなければならない。贈与を受けたものには反対給付の義務がある、そのルールを内面化したもののことを人間と呼びます。商品と貨幣のやりとりというスキームでしか人間社会で起きていることの意味を考量できないものは、厳密には人間ではないのです。人間にしか共同体はつくれない。だから、現代日本では地域共同体も血縁共同体も崩壊したのです。〉(内田 樹『ローカリズム宣言』(74p)

 

  先人から渡されたものを次の世代へ、仲間から提供されたサービスを、出来る機会が来れば、自分の得意技やできる範囲でお返しする。凱風館はこの気風が当たり前のように根付いているのだろう。

 本書では他にも,岐阜県中津川市の自治体の「人口3000人の村で27軒の飲食店がつぶれない」などの実践例や群馬県上野村で暮らしている内山節氏の村づくりの思索を援用しながら論を進めている。

 〈ローカリズムとは何かというと、自分たちの生きている地域の関係性を大事にし、つまり、そこに生きる人間たちとの関係性を大事にし、そこの自然との関係を大事にしながら、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をするということです。

 ここが自分たちの生きる世界だという地域をしっかりもちながら、そういうローカルな世界を守ろうとする人々と連帯していく。(内山節『ローカリズム原論』p106)

 

「相互扶助的共同体」における一人ひとりの基本的な心のありようとして、内田樹の次の見解は「そうだよな」と思っている。

 

〈ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。

 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。

 自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。

 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱり分からない。

 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。

 私は自分で生活費を稼いでいるし、身の回りのことはだいたいひとりでできるけれど、そんなことを少しもよいことだと思っていない。-------

 自分がしなければならないことを誰かがしてくれれば、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを私が代わりにやってあげることができる。----

 それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。〉

(内田樹著『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文庫版p270)

 

「相互扶助的共同体」には乳幼児もいるだろう、病気、高齢などによりほとんど寄与できない人もいるだろう。

 また、「人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)は、機能停止しないように定常的に維持することが最優先される。」

 そういうことも含めて「相互扶助的共同体」が成り立つには、その規模によるがさまざまな英知を結集する仕組みがいる。

 そこには、そこで起こることは「私たち」のことだと思える一人称複数的な主体がある程度いることが欠かせない。

 いずれにしても、贈与と反対給付のルールを内面化した人たちや気風があることが、大きいのではないだろうか

 

文献・内田 樹『ローカリズム宣言』―「成長」から「定常」へ( デコ、2017)

・内田 樹『街場の共同体論』(潮出版、2014)

・内山 節『ローカリズム原論』(農文協、2012)

・内田 樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』ーあなたなしでは生きてゆけない(文藝春秋・文春文庫、2011)