日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「ありがとう」で成り立つ社会へ

 孫の誕生後、ひとは生まれから、おこってくる欲求などに、一方的に周りの人に受けとめられ、応えてもらうことで生きていけるのだなと思う。

 少し考えれば、先人がつくり上げたものを当たり前のように享受し、ほとんどのことを他の人に支えられたりやってもらったりして、今まで生きてきたのだなと改めて思う。

 電力、ガス、上下水道をはじめ市民社会の基礎的なサービスは、もとから自然物としてそこにあるものではなく、市民たちの集団的な努力で維持されている。

 教育、医療、司法などの社会制度も、言語も、学術も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、わたしたちが自力でつくり上げたものは、ほとんどない。

 

 生きるための食生活に欠かせない農産物・食材も、多くの人の働きで、出来上がっている

 北海道での酪農から始まり精肉など牛関係の仕事に20年ほど携わってきた体験からみると、店で見ることができる「牛肉」「加工品」に、どれだけ数多のエネルギーが籠められているのかは、携わったことのない人には、よく分からないのではと思う。

 現代社会の特徴的な考え方として、自動販売機的な発想法がある。貨幣やカードを入れると、自動で物品の購入やサービスの提供を受けることができる機器のように、大した手間をかけずに、自らの希望のものが手に入るという発想である。

 この発想法は、確かに便利な面もあるが、ものごとに対する配慮の念、心の粗末な味気ない暮らしになっている面もあるだろう。

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〇贈与と反対給付が根源的に人間社会を成り立たせてきたとの見解から、贈与論を展開している内田樹『待場のメディア論』に次のような一節がある。

〈マルセル・モースも、ブロニスワフ・マリノフスキも、クロード・レヴィ=ストロースも人間社会の基幹制度はすべて反対給付義務に基づいて構築されているという仮説に基づいてその人類学モデルを体系化しました。そして、その仮説の妥当性は今のところ反証されておりません。

 モースは彼の探求の目的についてこう書いています。

受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られたものに潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか

「贈られたものに潜む力」を軽んじてはを軽んじてはいけません。「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が済まない。この「反対給付」の制度は地上に知られる限りのすべての人間集団に観察されます。(傍線原文、p.169)〉

 

 上記のことを云々できる力量はないが、それが心理的な負債感や返礼義務を帯びるとなると嫌だなという感じもある。

 しかし、直接それに対してではなく、とてもありがたい気持ちが残ると、何かあれば、「お返し」ということとは関係なく、贈り物をしたくなる気持ちが沸いてくる。

 

〈本を書くというのは本質的に「贈与」だと僕が思っているからです。読者に対する贈り物である、と。 

 そして、あらゆる贈り物がそうであるように、それを受け取って「ありがとう」と言う人が出てくるまで、それにどれだけの価値があるかは誰にもわからない。その書きものを自分宛ての「贈り物」だと思いなす人が出現してきて、「ありがとう」という言葉が口にされて、そのときはじめて、その作品には「価値」が先行的に内在していたという物語が出来上がる。その作品から恩恵を蒙ったと自己申告する人が出てきてはじめて、その作品には浴するに値するだけの「恩恵」が含まれていたということが事実になる。はじめから作品に価値があったわけではないのです。 

 書物の価値はそういうふうに順逆の狂ったかたちで構造化されている。僕はそう思います。(p145)〉

 

 出雲で九十歳過ぎの義父母と暮らしていたとき、贈答品・お祝い金・香典など何時・誰から・金額・どのくらいのものかなど事細かに記録したノートがあり、お祝い事など何かあるとそれにあわせて等価になるように用意していた。

 また、義父母がもらい受けた数多の贈答品が物置に山積みになっていて、両親死後全部といっていいほど処分した。もらった人が「ありがたいと」と思わない限り、価値は全くないだろう。むしろ余計なものになりかねない。

 書籍についても、読んだ人に何か恩恵をもたらさない限り、著者の自己慰安になっても、やがて塵になるばかりである。

 

〈僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれより前にはさかのぼることができません。「ありがとう」という贈与に対する返礼の言葉、それだけが品物の価値を創造するのです。(傍線原文、P183)〉

 

 この本はメディアのことを論じながら、一種の贈与論になっている。

 小項目のタイトルに、〈「ありがとう」が言えない社会/社会制度の根源「ありがとう」/メディアとは「ありがとう」という言葉〉とあり、要所にこの言葉が出てくる。

 育児・子育て・介護課題などを考慮すると、贈与経済論よりもっと広く探る必要があると思っていた私には、いろいろ考えたい内容に満ちている面白い本となった。

 

 次の提言も、どういうことを言わんとしているのか、しばし立ち止まってしまった。

〈自分が現にここにあること、自分の前に他者たちがいて、世界が広がっていることを、「当然のこと」ではなく、「絶対的他者からの贈り物」だと考えて、それに対する感謝の言葉から今日一日の営みを始めること、それが信仰ということの実質だと僕は思います。

 人間を人間的たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力です。〉(p205)

 

※能力(心):(ア)認識・感情・欲求・行動など精神現象の諸形態を担う実体。(イ)どれだけ精神機能が働きうるかという可能性。(広辞苑第五版)

 

 むろん、乳幼児には贈与などの意識はないと思う。ここの人間とは「成熟した人」という意味合いだろう。だが、「ありがとう」という純真な心の動きは、かなり小さいころから培っている子どももいるのではないだろうか。

 以前、山の向こうにのぼった朝日に向かって、感謝の挨拶をしてから一日の営みが始まるという人の話を聞いた時、自分にはとてもやれそうにはなかったが、いいもんだなと思ったことがある。おそらく太古から現在に至るまで、そのようにしている人は世界中にいるような気がする。

 

  参照・内田樹『待場のメディア論』(光文社、2010)