日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ユートピア主義と全体主義(中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』から)①

〇中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』「全体主義はよみがえるのか」を読んで。いろいろと学ぶところが多かった。特に、本書全体を通して「宗教とは何だろう」を考えることになった。対話の二人も「宗教とは何か」の再定義の必要性を述べている。

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「宗教(英: religion)とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。」とある。

 

 これまでは宗教に、漠然とキリスト教、仏教、イスラム教、そこから派生したさまざまな集団の教義や組織を思うことが強かったが、「人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念」を軸に、島薗氏がいう各派の共通性をもったカテゴリーに練り直す必要を思う。

 

 本書のタイトルにある「愛国」については次のように考える。

「愛国」は「国家」を愛する意を越えて、自分が暮らしているところに愛着を覚えるパトリオティズム(愛国心)の心情や、中島氏が述べる「トポス」(存在根拠としての場所)も思う。

 

「全体主義はよみがえるのか」という副題がついたこの本は、〈明治維新からの75年〉と〈敗戦からの75年〉をそれぞれ25年ずつ三期に分けた上で、まずは、かつての日本が全体主義になだれこんでいった原因を検証する。

 

 国体論、一君万民ナショリズム、祖国礼拝、親鸞主義、八紘一宇、日蓮主義、国家神道、教育勅語、煩悶青年などの内実と関連性について討議し、明治維新以後の日本の政治体制の何が弱さであり、何が無謀な戦争と侵略に向かわせ、何が国民の自由を奪っていったのか。

 

 戦後七五年が近づく現代の日本も、奇妙によく似た歴史の過程を進んでいるとし、危機の時代になると、人々はなぜ国家と宗教に傾斜していくのか。

 

 戦前のような全体主義はよみがえるのか宗教学者・島薗進氏と政治学者・中島岳志氏が互いの知見を研ぎあうように対話を進めていく。

 

 日本の近代史上の出来事については、知識的には多少知ってはいるが、その背景をなす宗教の流れについてはほとんどわからず、特に真宗が国家神道に溶け込んでいった事実や思想的背景については全く知らなかった。

 

 中島氏は親鸞の絶対他力の思想、つまり自らのはからいを捨てて弥陀の本願にゆだねる思想が、天皇への絶対帰依に転化してしまい、これが天皇機関説排撃への理論的支柱になったと述べていることなど、考えたことはなかった。

 

 第一章「戦前ナショナリズムはなぜ全体主義に向かったのか」第二章「親鸞主義の愛国と言論弾圧」、第三章「なぜ日蓮主義者が世界統一を目指したのか」と続き、第四章「国家神道に呑み込まれた戦前の諸宗教」で、戦前と戦後の相似点に焦点を当てながら全体主義に呑み込まれた過程を述べる。

 

 

 中島は次のようにいう。

〈戦前では、一九一八年に第一次世界大戦が終わってしばらくすると長期の不況に突入し、農村では深刻な貧困に見舞われました。同時に、急速な都市化や群衆の流動化によって、地域の共同性やトポスが喪失してしまう。

 一方の戦後の第三期では、一九九五年に阪神・淡路大震災とオウム真理教事件が起こる。さらにバブル崩壊の影響が本格化するのもこのころからです。以降、グローバル化によって非正規雇用も急増して格差や貧困の問題が顕在化していきます。

 一九一八年と一九九五年。前者は「明治維新後五〇年」であり、後者は「戦後五〇年」です。つまり戦前と戦後はいずれも五〇年目を境にして、社会基盤が急速に弱体化していくという共通点をもっています。〉

 

 

 そして中島は、明治期に近代化の過程で「自己とは何ぞや」と悩んだ煩悶青年らの潮流が国体論的なユートピア主義に傾倒する過程で、浄土真宗や日蓮宗的な思想・信仰が媒介役となったと主張する。

 

 その煩悶青年の一部は、理想的な社会像を「一君万民」、つまり天皇の下での平等な世界に求めた。「国民国家形成のために使われた『神話』が、彼らの実存的な不安、世界と合一化したいという欲求の『よりどころ』となったのです」と述べる。

 

「煩悶」とは知的な探求を好む自由な個人の実存的な悩みという意味合いだが、当時旧制一高の学生の藤村操が、一九〇三年に華厳の滝に飛び込み自殺をした。自殺現場のそばの樹木に「我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」という言葉が書き残されていて、そこから「煩悶」という言葉が流行した。そして、この煩悶青年の中から超国家主義者になっていった人間も少なくない。

 

 

 そして中島は次のことを述べる。

〈満州事変を指揮した石原莞爾、血盟団事件の首謀者である井上日召、二・二六事件の理論的指導者である北一輝はみな一八八〇年代生まれで、煩悶を抱えながら青年時代を過ごしている。そして一九二〇年代を通じて、格差や貧困が拡大していくと、煩悶青年たちは、超国家主義者へと先鋭化していくわけです。上記の三人はいずれも青年時代に日蓮主義を経由している。

 

 そして社会が流動化して承認のリソースが不足すると、必ず出てくるのがユートピア主義です。「今の世界とは違う本当にすばらしい世界があるはず」というユートピア主義的な精神性は、戦前の超国家主義者からオウム真理教、加藤智大、ネット右翼まで共通しています。

 

 私が戦前の煩悶青年に注目するのは、彼らの多くが宗教を通過しているからです。それは日蓮主義に限らず、親鸞主義を通過している超国家主義者もいます。その典型は、天皇機関説排撃の急先鋒となった三井甲之です。あるいは、北一輝とともに革新右翼として知られる大川周明も、中学時代から人生論的煩悶の出口を宗教に求めていた人物でした。

 

 同じ仏教でも、日蓮主義と親鸞主義は教義も世界観も大きく異なります。しかし戦前では、そのいずれも国家神道に取り込まれ、超国家主義者を培養していった。なぜ、伝統的な宗教や教団は、国家神道や国体論に傾斜していったのか。〉 

 

 中島の「煩悶青年」という角度から議論している点に共感しつつ、島薗は次のことを述べる。

 

〈国家神道は、皇祖皇宗、天照大神から現在の天皇に至る神的な統治者への崇敬として、江戸時代末期に構想され、明治維新後、着々と具体化されていきました。

 そこで唱えられたスローガンが祭政一致、つまり、政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通して下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合されるというものです。たとえば、維新政府は政府の最高官庁として、祭祀・宣教などをつかさどる神祇官を設置しました。最高官庁ですから、行政の統括機構である太政官よりも上に位置づけたのです。その後、神祇官は廃止されますが、その主旨はかたちを変えて保持されていきます。

 

 重要なのは、国家神道と他の宗教との関係です。端的に言えば、国家神道は「祭祀」や「教育」にかかわるもの、あるいは社会秩序にかかわるものと位置づけられたのに対して、その他の宗教は死後の再生や救いの問題、あるいは内面の安らぎにかかわるものだとされたわけです。

 

 明治維新に始まる近代国家は、西欧の常識にならって、信教の自由を認めなければならない。だから日本も、信教の自由を認めて、政教分離を制度化する体裁は整えたわけです。しかし同時に、国家神道を「非宗教」とすることで、国家神道の持ち場である「祭祀」や「教育」は国家が管理できるような制度設計をした。

 

 そして、国民の中に皇道や国体論が刷り込まれていくのは、一八九〇年に教育勅語が発令され、学校行事や教科内容、軍隊の訓練、戦勝記念行事や大正天皇の結婚式など、さまざまな機会を通じて、天皇や皇室の存在が、国民の脳裏に強く焼きつかれていくようになる。

 

 こうした形で、一八九〇年から一九一〇年あたりの二〇年間で、国家神道を普及させるさまざまな制度やシステムが確立していく。

 民衆が自ら自発的に国家神道の価値観を身につけ、その価値観のもとに行動するという運動という性格を帯びるようになる〉

(つづく)

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参照:中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』「全体主義はよみがえるのか」(集英社新書、2016)

  【全体主義はよみがえるのかー『愛国と信仰の構造』から考える】「Kotoba」(集英社新書プラス)