日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎一市民として「憲法九条」を考えてみる。①(佐藤義男と古関彰一から)

〇5月2日に、ETV特集『義男(ギダン)さんと憲法誕生』」をみる。

 日本国憲法の制定にかかわった人物として、福島県の政治家にして法学者・鈴木義男の再評価が始まっているという。

 番組では次のことなどが紹介されていた。

・敗戦の翌年1946年、帝国憲法改正案の審議を行う衆議院の小委員会で、鈴木義男議員が強く発言して九条の「平和主義」を「消極的でなく積極的な意味を持たせる」ための文言が付け加えられた。

・GHQ草案にはなかった「生存権規定(現行二十五条)」について、「十二条の幸福追求権に含まれる」として明記しなくてもいいという意見があったのを、「十二条の「望まない妊娠」(現行十三条)は理念であること。それゆえ「生存権」は具体的な生活保障と主張して明記させたこと(その結果生活保護をはじめとする生活保障の制度が生まれた)。さらにこれもあたらしく裁判における「国家賠償」と冤罪者への「補償」制度を明記させたことなどが、語られた。

・彼が、女優志賀暁子の「望まない妊娠」を中絶して堕胎罪に問われたときの弁護人であり、当時は現在のような母体保護法は存在せず、女性はたとえレイプされても中絶できず、「ヤミ」で実行すれば刑法の堕胎罪で罪に問われた時代。鈴木弁護人は、堕胎罪がある以上罪はまぬかれないが,やむに已まれぬ事情で彼女のとった方法を女性のみの罪として指弾できるかと問い、「だれが彼女を石もて擲つことができるだろうか」と論じて異例の執行猶予判決を勝ち取った。

 

 戦前、東北大の教授時代、軍事教練の導入に反対して教壇を追われたギダンさん。弁護士に転身し、河上肇や宮本百合子など治安維持法違反者の弁護に尽力した。この時の経験が、戦後、国家賠償請求権や刑事補償請求権の要求へとつながっていった。

番組では次々に明らかになる鈴木義男の新資料をもとに、憲法改正案の小委員会や法廷での弁護を忠実に再現した。

 

 この番組は、衆議院の憲法審議過程の速記録もとにしてドラマ構成されているが、そこでは「保守」に属する進歩党や自由党の議員と、革新派の社会党議員などの出席者が異なる意見を出し合いながら、対等に話し合う基盤があり、最終的に合意していく過程が現れていた。

 さまざまな異見を、徹底的な話し合いにより合意を形成していくのは、民主社会の根本にある理念であり、このことを思わせるものがあった。

 おそらくこの時はみんな自分たちで日本の将来を思い、「二度と戦争しない」方向にという点で一致点を見出す可能性があったのだと思う。

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  ※憲法学者・古関彰一は、日本国憲法制定過程に関する研究を中心に、憲法の軌跡を紐解いてきた。またそれについて、数々の講演、談話がある。

 上記のことに関連して一つ見ていく。

〇【憲法学者・古関彰一】『押し付け』説はどこから生まれたか? 昭和天皇こそ望んだ「平和憲法」(2015.08.27)から一部抜粋。(構成/松井哲朗)
https://www.premiumcyzo.com/modules/member/2015/08/post_6162/

 

古関 当時の資料を読み込むと、実は松本試案は閣議や憲法問題調査委員会でも評判が良くはないのです。法制局の官僚たちは「大きな改正をしたほうがよい」という言い方で、もう少し民主的なものにしたほうが良いという考えを示しているし、東大の憲法学者であった宮沢俊義氏なども疑問を抱いています。ただし、このときに松本案を非常に支持したのが美濃部達吉氏なんです。当時70歳を超えていた、憲法学の大権威です。そうなると、ほかの人は表立って反対はしづらかったのだろう、と推測できます。

 そもそも、明治憲法から変わらずに天皇が統治権の総攬者であるとしていた松本試案よりも先に、天皇自身が現憲法に近いことを述べていると私は見ています。ひとつには、ポツダム宣言受諾直後の45年9月4日に出された詔勅で、「平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことを冀」うと「平和国家」に言及している。戦争の放棄には言及していませんが、平和国家の樹立は日本の使命だと、明治憲法下にあって法的効力を持つ詔勅で述べているわけです。翌年1月1日のいわゆる「人間宣言」では、天皇と国民とは「信頼と敬愛」で結ばれていると述べており、これは明治憲法の「神聖にして侵すべから」ざる存在から一挙に「象徴」に近い関係を示している。

 あるいは、人権についても同様です。憲法より先に、個別の法ができている。例えば、男女平等や労働基本権もGHQ案で提示されたものだとされていますが、45年12月の段階で衆議院議員選挙権を改正して女性に参政権を与えているし、労働組合法も制定されている。でありながら、松本試案には、男女平等も社会権も書かれていなかった。法律が変わったとわかっていても、人間の頭の中はそう急には変われなかったということなのでしょう。激変する社会の中で明治憲法を否定する法律を認めていたのに、頭の中では明治憲法そのままだったのですね。

──想像を超える複雑な過程を経て、日本国憲法は誕生しているわけですね。

古関 日本国憲法の骨格・理念はGHQが作ったというのは、確かに私もその通りだと思います。しかし、よく考えてみれば、現在の我々の時代にとても重要になっている生存権のような人権は、日本の国会議員が率先して作ったものです。あるいは、「平和憲法」と呼ばれる9条の「平和」という部分も同様です。そうなると、そう単純に「押し付けだ」とは言えません。さらに、どこの国が何を作ったとか何が日本の固有のものだとか、そういう議論をする時代ではもうないでしょう。そうした意味では、私たちはあの憲法制定過程の中で国際化を経験してきたわけです。

 また、憲法に関しては資料が公開されるのに非常に時間がかかり、まだ実証できていないこともたくさんある。例えば、私が初めて本を出した(『新憲法の誕生』89年/中央公論社)頃は資料がなくて、9条の成立過程などは全然わからなかった。当時からジャーナリストなどは9条と1条はバーゲニング(取引)であると言っていましたが、実証はできなかった。ですが、昭和天皇が89年に亡くなられた後、さまざまな資料が側近たちの中から出てきました。それから、憲法制定時の議会の議事録が95年に公表された。こうした出来事があって、戦後70年の間にも憲法に対する認識はあらためられてきました。歴史はやっぱり正確にしておかないといけない。特に研究者には、そういう責任があると思います。

 

〇古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版 (岩波現代文庫、2017)から。

 

 本書案内:〈現憲法制定過程で何が起きたか。第九条制定の背景にはいかなる事情が存在していたか。「平和国家」構想の基点はどこにあったか。GHQ側、日本側の動向を徹底的に解明して定評ある必読書が、新資料に基づく知見によって、さらに充実。「憲法改正」問題が課題になるなか、戦後の平和主義の原点を再照射する論点も明確にした改訂版。〉

 

  日本国憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実について丹念に調査をしている。

 

 帝国議会の審議録や憲法の起草過程に直接関わった人々の著作、関係する人々の記録、アメリカ側の資料、最近公開された昭和天皇実録も含めて、多数の日本国憲法制定過程の資料に基づく実証的な記述は説得的だ。

 

 近来、日本国憲法の制定過程は、「押しつけか否か」という単純化された情緒的な議論に傾きがちだが、GHQ、アメリカ本国政府、極東委員会、日本政府の法制官僚、与野党の政治家、憲法学者、民間の議論など様々な主体・要素が関与しながら今の形になっているという複雑な過程を押さえておくことは、それをどう評価するかなど、憲法改正議論のための知識として必要なことと思う。

 

※他著に『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫)、『平和憲法の深層』(ちくま新書)