日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎多元主義と「多一論」(中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』から)➂

◎多元主義と「多一論」(中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』から)➂

 第七章「愛国と信仰の暴走を回避するために」では、我が国のネット右翼の台頭や世界各地で進む伝統宗教の復興、宗教ナショナリズム、原理主義が存在感を強めている理由から、違いのある他者を尊重する「多元主義」の話題になる。

 中島岳志は「多一論」という概念を提示している。
「多一論」とは、地球世界という相対レベルにおける多様な個物は、絶対レベルにおいてはすべて同一同根のものであり、地球世界における「多なるもの」は「その一なるもの」の形をかえた具体的現れであるという概念である。

 中島は次のことを述べる。
《本当の多元主義は、メタレベルにおける一元論をもっておく必要があると述べる。
欧米の多元主義は共同体主義(コミュニタリアニズム)と同じように相対主義になってしまう。バラバラに存在していて、あなたの価値も私の価値も同じように大事だから「それぞれ認め合いましょう」という発想になってしまう。

 しかし、ガンディーや鈴木大拙、西田幾多郎などの東洋の思想家に見られるのは、世界はバラバラで多元的だけれども真理はひとつである、もしくはひとつである真理が多元的にあらわれているという多元主義的「一元論」で、わたしは「多一論」と呼んでいる。》


 また、中島岳志はこれまで「多一論」について『「リベラル保守」宣言』などで、次のようにのべる。

《「価値相対主義」は「あなたの考え方は、自分の考え方と異なるけれども、ひとつの考え方として認めましょう」という立場である。自分とは相いれない相手の考え方をとりあえずは承認するものの、価値観の共有にまでは踏み込まないのが相対主義である。

 このような立場に立つと、異なる他者との「住み分け」を模索することになる。文明の衝突を避けるためには、相手の価値観には干渉しないが、私の価値観にも干渉しないでくれ、という態度が表面化する。差異性を強調すれば、世界はバラバラになる。しかし、同一性を強調しすぎれば、一緒になることの強制が起こる。

 この二分法を超えるヒントとなるのが、インド独立の父であるマハートマー・ガンディーの議論である。ガンディーは宗教と真理の関係を山登りにたとえて次のように言う。

 山の頂は一つだ。しかし、その登り道は複数存在する。これと同じで、世界の真理は一つであるが、そこに至るための道筋は複数存在する。この複数の「道」が世界各地の宗教であり、それぞれの宗教にはそれぞれの「真理に至る道筋」が存在する。しかし、究極の真理は山の頂と同様に一つであり、相対世界を超えた絶対レベルにおいて、すべての宗教は同じ一つの真理に行き着く。

 ガンディーは「真理」と「道」の違いを勘違いして、世界中で宗教対立が起きている現状を憂い、このように諭したとされる。宗教の単一論、特定宗教の絶対化、宗教の相対主義、いずれの理論も超越している。彼は絶対レベルにおける真理の唯一性と、同時にそれに至る道の複数性を認める「宗教の多一論」を主張したのである。

 仏教に、「多即一、一即多」という考えがある。「多」なるものは「一」なる真理へと収斂し、「一」なる真理は「多」なる存在としてこの世にあらわれるという考え方である。ガンディーの思想はこの仏教思想と通底している。》


 そのことについて、島園進は半分共鳴するものの、鋭い疑問を提示している。
〈宗教多元主義の議論で、「一なるもの」に相当するものを持ち出すと、楽観的で危ういと思う。さまざまな宗教、さまざまな思想があるが、根本で一致できる何かを提示しようとすると、一元的な何かを見つけようとして、結局「他者性」を軽んじることにつながることが多い。つまり、多様性を超えた「一なるもの」というものはなかなか是とできない。

 多様なものの一つひとつは、共通の生活実践の中で育まれてきたもので、伝統や文化、生活形式と切り離せない。共同性から生まれる豊かさそれ自体の価値を重視しなければいけないと考える。しかし、それに縁遠い人たちが多くいる。
 そのように考えると、多様な価値から共通の土台を引き出せるという論理は楽観的になりがちである。〉


 それについて中島は次のことを述べる。
《南方熊楠、柳宗悦、西田幾多郎といった「多一論」に連なる思想家は、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられないとしている。

カントによれば、その絶対平和の理念は「統制的理念」と「構成的理念」とから成り立っているという。「統制的理念」とは絶対平和のような「人間にとって実現不可能な高次の理念」で、「構成的理念」というのは、「政治的に実現可能なレベルの理念」。
 人間にとって実現不可能な高次の世界を措定し、そこに向かっていくためには、実現可能な「構成的理念」が必要と考える。》


 一と多の問題もこれに似ていると中島はいう。
 そして、世界を一色にしてしまうことに猛然と反対した民芸の創設者である柳宗悦は、世界は多元的であるがゆえに、複合的な美を内包している。そして個別的な美は、常に「一」なる超越的存在のあらわれであり、その美はそれぞれのトポス(存在根拠としての場所)において開花する。と中島は述べる。

 柳宗悦は、1919年朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。
 当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術に注目し、1920年6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。1924年、京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。

 
 それに対し、島薗は述べる。
《どこかで人類は一致したいという願いをもち続けているし、一致できる前提に基づいて政治的な理念や行動も構成されることを願っているが、そのときに「一つ」のような形而上学的な前提を置いていると、「多」の方が貧弱になるし、場合によっては、超越的な理念が暴走しかねない。
 私自身はポリフォニー(多声)という考え方に共鳴していて、多様なものが存在すること自体を受け入れ、かつ一致できるものを最大限求めていく立場があり得ると考える。》

 
 わたし自身は、島薗氏の見解に共感する。真理の影と表現しようが、真理は一つという考え方には疑問符をつけておきたい。

 中島氏のいう「多一論」は面白い概念で、わたしが関心を持ち続けている、山岸巳代蔵も真理の捉え方やあくなき追求は独特だが、しいていえば、その系譜につながると思うし、その思想から生まれたヤマギシ会運動も、理想社会やユートピアにつながるものと覚えて参画した人も少なからずいると思う。

 

 中島氏は、自らの「『「リベラル保守」宣言』で、《人間が理性を存分に使って正しく設定すれば、未来はよい方向に変革できるはずだと考える。つまり、未来にユートピアをつくることが出来ると考える左翼的な主張に対して、「リベラル保守」の立場は、「理性万能主議」には懐疑的で、人間の理性だけでは、未来に理想社会が実現するとは考えない。長年の歴史の中で蓄積されてきた経験知や良識、伝統といった「人智を超えたもの」を重視するべきだと考える。「保守は過去にも未来にもユートピアを求めない」と述べ、その理由として「絶対に人間は誤るものである」、そして「人間が普遍的に不完全なものである以上、人間の作るものは不完全である」》と語っている。 また、中島氏のいう「多一論」の帰結は、結局のところ、絶対的なもの、例えば完全無欠な幸福社会としてのユートピアはありえず、人間に可能な社会は「より良くより正しい」ものを求め続ける「永遠の微調整」だけ、ということになるのではと思う。

 わたし自身は、島薗氏が述べるように、「多様なものが存在すること自体を受け入れ、かつ一致できるものを最大限求めていく立場があり得る」ことを大切にと考える。
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 参照:中島岳志×島薗進『愛国と信仰の構造』(集英社新書、2016)
    中島岳志『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫、2015)