日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ウイルスについての基礎的な話(長期的視野にたって)①(福岡伸一の研究から)

〇新型コロナウイルスに関して、短期的には、世界中の叡智を結集し協力し連帯し、収束から共存に道へ誘うことが肝要だと考える。

 社会的に人々が対応できる免疫システムができるまで,さらに予防・検査・治癒などの対応システムなど整うまで、ある程度時間がかかるので、批判はしても心の底に共感と協力をおくことが大事だと思う。

 一方長期的には、このウイルスと共存あるいは調和する方向で考えるのが必要だと思っている。人間がこの地球上で生存するのは感染症や疾病とつねに共存することを意味する。

 

 今回の新型コロナ ウィルスは「新型」で「未知」のものだが、数年ごとに「新型ウィルス」が登場して、世界的に感染拡大して、多くの死者が出るのは「既知」の事実。2003年のSARS、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERS、いずれもコロナウィルスによる世界での患者数は多数にのぼる。これからもさまざまな形で生じてくることで、ことさら「未知」だの「新型」だのということを言い立てて病気を特別化することだけはしないでおきたい。

 

 むろん、今の新型コロナウイルスを収束させることが第一義の課題である。その上で、新たに起こってくるウイルスについて、その蔓延を防ぐ手だて、それに対する社会としての対応など、長期的な対策、施策を考えておくことも大事だと思う。

 その観点から、まずウイルスとはどういうものかを、まず知ることから始まるのではないか。そのことに福岡伸一、長谷川真理子などの基礎的な見解は参考になると思っている。

 

○「福岡伸一の新・生命探検」『AERAdot』から

 最近は新型コロナウイルス関連の記事が多く、その中で朝日新聞連載「福岡伸一の動的平衡」や『AERAdot』「福岡伸一の新・生命探検」はウイルスがどういうものだかがある程度想像できるので、面白く読んでいる。むろん、その見解をどうこう言えるだけのものはないが、『動的平衡』『生物と無生物のあいだ』以来、その見方は参考になると思っている。

 

「福岡伸一の新・生命探検」『AERAdot』(2020.2.6)の記事の一部でこのように述べている。

【感染拡大する“新型コロナ” 福岡伸一が語る「ウイルスの基本的な生物学」】

〈ウイルス自体は宿主にとって異物タンパク質なので、これまた免疫システムの警戒網にひっかかり、抗体による攻撃やリンパ細胞による捕食によって退治される。これが速やかに進行すると、宿主の健康には特別な症状はでない。出たとしても軽症で終わる。なので、ウイルス対策の一丁目一番地は、自分自身の免疫システムの保全ということになる。

 逆に免疫システムが弱っていたり、その調整がうまくいかなかったりすると、重症化する危険性がある。もともと何らかの疾患があったり、高齢者にリスクがあったりするのはそのためだ。

 免疫システムの大敵はストレスである。ストレス時に分泌されるステロイドホルモンは身体を緊張させ、戦いや逃走に備えるが、逆にその際、免疫系は抑制されてしまうのである。〉

 

 つまり、ウイルス対策の要は自分自身の免疫システムの保全であり、免疫システムの大敵は各自のストレスだと述べている。

 

 福岡伸一の動的平衡論は「生命は絶え間なく分解と合成を繰り返す動的平衡の中にあり、命は流れである。食べ、生きるということは、体を地球の分子の大循環にさらして、環境に参加することにほかならない。食物とは全て他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっている。さらに、空気も水も、ウイルスも、あらゆるものの一部が私たちの身体を流れている。」というもの。

 

 そして、(福岡伸一の動的平衡)「ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部」(4月3日朝日新聞)では、親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらないが。ウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を越えて、立体的にさえ伝達しうるとし、ウイルスは生命の進化に不可避的な一部で、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に調和的に生きていくしかないと述べる。

-------

参照:福岡伸一『動的平衡』(木楽舎、2009)著者からのコメントより。

〈生命現象の核心を解くキーワード、それは<動的平衡> (dynamic equilibrium ダイナミック・イクイリブリアム)。

 私達は、自分は自分だ。自分の身体は自分のものだというふうに、確固たる自己の存在を信じているけれど、それは、実は、思うほど確実なものではない。私達の身体は、たんぱく質、炭水化物、脂質、核酸等の分子で構成されている。しかしそれら分子は、そこにずっと留まっているものでもなければ、固定されたものでもない。分子は絶え間なく動いている。間断なく、分解と合成を繰り返している。休みなく出入りしている。実態としての物質はそこにはない。1年前の私と、今日の私は、分子的に言うと、全くの別物である。そして現在も尚、入れ替わり続けている。つまり私達の身体は、分子の淀みでしかない。(その淀みは、さっきの方丈記のよどみと同じだと思うんですね。)それもほんの一瞬の、私達の生命は、分子の流れの中にこそある。止まることなく流れつつ、危ういバランスの上にある。それが生命であり、 そのあり方を言い表す言葉が、本誌のタイトル「動的平衡」である。本誌は、最初から最後まで、「動的平衡」とは、いったい何なのか、どのように成り立ち、いかに振舞うかを考えた本である。爪や皮膚、髪の毛であれば、絶えず置き換わっていることが実感できる。しかし、私達の全身の細胞の全てで置き換わりが起きている。固い骨や歯のような部位でも、その内部は、動的平衡状態である。おなかの周りの脂肪も、絶えず運び出され、絶えず蓄えられている。(そうですよお腹も。(笑い)周りの脂肪も。)分裂しないはずの脳細胞でも、その中身やDNAは作り変えられる。何故それほどまでに、当てどのない自転車操業のような営みを繰り返せねばならないのか。それは絶え間なく壊すことしか、損なわれないようにする方法がないからである。生命はそのようなあり方と、振る舞い方を選び取った。それが「動的平衡」である。生命は、必死に自転車をこいでいる。追ってから逃れるために。追っては生命を捕らえて、その秩序を壊そうと 企む。温かな血潮を冷まそうとする。循環を止めようとする。追っての名は、エントロピー増大の法則。輝けるものは、いつか錆び、支柱や針は、いずれ朽ち果てる。いかなる情熱もやがては消え、整理整頓された机の上も、すぐに本や書類が積み上がる。乱雑さ、これがエントロピーだ。エントロピーが増える方向に時間は流れ、時間の流れは、乱雑さが増える方向に進む。生命も、この宇宙の大原則から逃れることが出来ない。しかし、エントロピー増大の法則に先周りして、自らを敢えて、壊し、そして作り変えるという、自転車操業を続ける限りにおいて、生物はその生命を維持することが出来る。私達の身体において、弛まず、けなげに、自転車を漕ぎ続けているもの、それが「動的平衡」である。貴方は本書を読み終わった後、季節の移りを感じ、高い空を見上げ、色んな思いを巡らせることだろう。あるいは沢山の友達と会話することだろう。その時々にこう言ってほしい。「ああ、それはね、動的平衡だよ」〉