〇今話題になっている新型コロナウイルスのことで、どちらかというと私にはある程度距離を置いた出来事だったが、奈良の観光バスの運転手に症状がでたとの報道に、バスの運転手をしている友人のS君のことを思い、ぐっと身近なことになる。
ヒトからヒトあるいは動物からヒトに感染する伝染病は、古くから人間の生命健康を脅かすものとして恐れられていた。
また、ウィルスは他の生物(動物、植物、細菌)の細胞を利用して自己を複製できる微生物の一種である。タンパク質の殻と核酸(DNAまたはRNA)から成っている。細菌よりもさらに小さい。生命の最小単位である細胞を持たないので非生物とも呼ばれるが、遺伝子を持っており、他の生物の細胞を利用すれば増殖することができるという生物の特徴も持っている。
そして感染に関しては、発病するか否かは、宿主側との力のバランスによって決まる。ウイルスに限らないが、免疫力の低下した高齢者、病弱者などは病状が悪化する可能性が高い。
今度のような事件や、近来の大きな災害が起こるたびに、そこに親しい友人が関わっていると、どうしているのか、その後どうなのか、大層気にかかってくる。日本に関しては、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨など、どの地域でも親しくしている友人がいる。そうでないと、自分のことというよりも、距離を置いてみることが出来る。
この辺はいいい加減な感じもあるが、文明、交通の発展により、世界でも起こることはやがて自分にも関係してくるおそれがあることは心しておきたい。
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50歳を過ぎてから難儀を抱えた高齢者や重度心身障がい者関連の活動をしていたとき、気持ちの置き所は、一人ひとりに応じていろいろではあっただろうが、総じて第三者的な視点で関わっていることが多かったと思う。
今は自分のことのように感じることも多く、あの時にあの人はこんな気持ちではなかっただろうかと振り返ることもある。
ある問題について、「自分のこと」としてみるのか「他人事」としてみるのかで、向き合う態度が極端に違ってくる。「他人事」は、時がたつとともに流され、関心が薄まっていき、やがて忘れさられていく。
「自分のこと」として、想像力を働かせることから見えてくることも多いのだろう。
最近南海トラフ地震の情報などに触れることもあるが、そのような体験がないか、あるいは想像力が及ばないのか、どうも自分の身近な問題になっていかない傾向がある。
どんなことでも、他人ごとになると、どこかで「何をそんなに懸命になるんだろうな」という思いがわく。一旦自分のこととなると、妙に力が入っていく。
考えていくときに、「他人ごと」と「自分のこととして」と、どちらにたって見ていくのか、大きな分岐点になるような気がする。少なくとも「他人ごと」である限り、きちんと考えていけないと思っている。
昨年三週間の入院中、少なからずの方に、自分もそのようになっていくのだなと思ったこともある。
超高齢社会など、いろいろなことが他人事としてではなく、自分のこととして身近な課題になってきている。