日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎働く幸せとは(1)(大山泰弘と日本理化学工業に触れて)

〇ある人との出会いや体験から、その後のその人の生き方を決定づけることがある。

 そのことから、ある「理想」を描き続けることもあるだろう。

 だが、ときの経過とともに、理想と現実のはざまで、描いた理想が薄れていき、あるいはおかしなものに歪んでいくこともある。

 その理想が、次第に周りの人々に共感され、会社の理念となり、やがて「日本でいちばん大切にしたい会社」と注目されるようになるのは、現会長・大山泰弘氏の所属する日本理化学工業株式会社である。

 

 ここでは、目配りのきいたと思われるノンフィクション、小松成美『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡 』など参照しながらみていく。

 

 この会社から、大きく二つのことを思う。

  • 一個人の描いた理想が多くの人に共感され、会社の理念となり、半世紀以上経過しても、その輝きが持続していること。
  • 働きたいけれど、身体的に、精神的に、能力的になどいろいろな理由で、働くことが困難な人たちがいる。この会社は知的障がい者を雇用し、様々な困難に真摯に向き合いながら、その人たちと共に成長してきたこと。

  障がい者が働くこと、その家族たちの在りようについては、私にとって身近なことでもあり、いろいろなことを考えさせられた。この稿では、まず①についてみていく。

 

 日本理化学工業は1937年設立のチョーク製造会社。1960年、現会長大山泰弘氏が知的障がいを持つ二人の少女を受け入れたことをきっかけに、障がい者雇用に取り組み始める。2017年現在、社員83名のうち7割を越える62名の知的障がい者を雇い、日本のチョークのシェア50%を占める筆頭メーカー。

 2008年出版『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著、あさ出版)と、同年放映された村上龍司会の「カンブリア宮殿」の紹介により経営と福祉の両方の面から注目を集め続けている。

 

 父が社長を務める会社に入社して3年程した1959年に大山泰弘氏(当時27歳)は、工場の近くの養護学校の先生から、「卒業する生徒を雇ってほしい」と言われ、素っ気なく「責任を持てない」と断る。その後も懇願は続き、その先生の二つの言葉が胸を突く。

「卒業後、就職先がないと親元を離れ、一生施設で暮らすことになります」。「働くという体験をしないまま、生涯を終えることになるのです」。

  何度も断るが、「就職は諦めましたが、せめて仕事の体験だけでもさせていただけないでしょうか。私はこの子たちに、一度でいいから働くというのはどういうことか、経験させてあげたいのです」と言われ、大山氏の心が動き、2週間の期限を設け、少女2名を預かることになる。

 

 実習最終日に中年女性社員の中から、「専務、たった二人なら自分らで面倒見るから雇ってほしい」と直談判を受け、その勢いに押され了承することになる。

  入院中の創業者の父に報告すると、「そんな会社が一つぐらいあってもいいんじゃないのか」という返事。父は10人兄弟のひとりで、丁稚奉公からのたたき上げの苦労人だったという。

 

 その二人の少女は大山氏の想像を超えてよく働いた。その働きぶりをみて、大山氏はある疑問を抱く。

「福祉施設にいたほうが、楽で、幸せで、守られている。そう思っていた私は、なぜ彼女たちが懸命に働くのか、不思議でなりませんでした。当時は、彼女たちにとっては、労働=苦役と思っていましたから。それなのに、何かミスをして従業員から怒られ、『もう来なくていいよ』と言われると、『嫌だ』と泣いている。『会社で働きたい』と言うのです。不思議でした。それに、私のなかには障がいのある人を働かせているという後ろめたさがどこかにありました」

             

 知的障害のある二人の少女の一生懸命働く姿を見ながら、沸き起こったいくつもの感情、いくつもの疑問を払拭したのは、出向いた法事で同席した禅僧との出会い。

 彼女たちの話をしながら、疑問を投げかけると、「人間の究極の四つの幸せ」の話を禅僧から聴く。

 

「曰く、物やお金をもらうことが人としての幸せではない。

人に愛されること/人に褒められること/人の役に立つこと/人から必要とされること。この四つが人間の究極の幸せである」と。そして付け加える。「人に愛されることは施設や家でも感じることができる、けれど、人に褒められ、役に立ち、必要とされることは働くことで得られるのですよ。その人たちは働くことによって、幸せを感じているのです」

 その瞬間から、世の中の光景も映る色も変わって見えたという。

 

 その後、職場に起きたさまざまな軋轢と逆境を乗り越えて、会社とは何か、経営とは何かと考え続けて、一つの答えを出した。

「重度知的障がい者の幸せを叶える会社を作り経営する。日本理化学工業は、利益を出し成長を遂げるとともに、すべての社員に幸せを提供する。という二つの目的を叶えるために働くのが経営者だと言い聞かせた」という。

 また、知的障がい者がお世話される側・施される側から脱却し、力強い労働者になる方法を考え出していく。

 さらに、「健常でも障がいがあっても働くことで幸せを感じてもらう。働くことこそ、人も自分も幸せにする。“皆働社会”を実現することが、私の人生の目的となりました。」となり、大山泰弘氏は次のように述べる。

 

「私が提唱しているのは『皆働社会』です。日本国憲法第13条には『すべての国民の幸福追求を最大限に尊重する』とあり、さらに第27条で『すべての国民は勤労の権利と義務を負う』とある以上、重度の障がい者だから福祉施設で一生面倒を見てもらえばいいというわけでもありません。つまり、健常者が障がい者に寄り添って生きる『共生社会』ではなく、『皆働社会』なのです。そのことに気付いた私は、福祉施設改革による『皆働社会』の実現を経営理念の一つにしました」

 

 大山泰弘氏が描く通りの理想的な会社となるまでには紆余曲折があった。

 長男の現社長・大山隆久さんが1996年に経営に加わったころ、チョーク業界は切迫の度を高めていた。少子化とホワイトボードの普及でチョークの需要は下り坂だったことと、日本理化学工業はチョーク製造の他に大手企業の下請けの作業もしていたのだが、その他の事業が消滅に向かっていたため、隆久氏は障がい者雇用の縮小や合理化、近代化を考えたという。  

 しかし、父も叔父も姉も製造部長も頭ごなしに否定することはなかったが、今ある流れを変えようとはしなかった。

 隆久氏も、現場で社員と同じ時間を過ごすうち、彼らの仕事への姿勢、まじめさ、笑顔などに触れ、彼らと働けることこそ、自分の喜びだと考えるようになっていった。

「誰かから何かを言われて、自分の考え方が変わったのではありません。知的障がい者と呼ばれる人たちと一緒に働いていくなかで『すごいな、かなわないな』と素直に感動し、尊敬したからです」という。

  2009年、大山会長は渋沢栄一賞を授与され、その頃には「日本でいちばん大切にしたい会社」と経営、福祉をはじめ、各方面から注目されるようになる。

 

  2016年7月26日の相模原殺傷事件の衝撃に言葉を失いながら大山泰弘氏(84歳)は次のように呟く。

「生きていて意味のない人間など一人もいない。重度の障がい者であっても、それぞれが必ず、誰かに寄り添い寄り添われ、必要とされている。誰かの心を支え、役に立っているのに-----」

  1960年に二人の少女を採用して以来、すでに半世紀は経つ障がい者雇用の体験から、大山氏は、日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれる糸賀一雄の「この子らを世の光に」から、次のように語る。

 

 「彼らこそ、世の中を照らす光になるはずだ、彼らから生きることの意味や人の役に立つ幸せ、そして働く喜びを教えられた」

 「彼らこそ世の光であると知っている私が口を閉ざしてはならない。どんなにゆっくりであっても、否定や障壁を感じても語り続けなければ」と考える。

(つづく)

 

※・小松成美『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡 』(幻冬舎、2017)

・日本国憲法第13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

・日本国憲法第27条:すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

・〈日本理化学工業株式会社のビジョン/目標:日本一強く、優しい会社を目指す。

 経営的にも強く、精神的にも強く、人に優しく接することができ、人と環境に優しい商品を作り続ける。

 「働く幸せの像」彫刻制作及び寄贈  松阪 節三

 刻まれた言葉:導師は『人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること、の4つです。働くことによって愛以外の三つの幸せは得られるのです』 と。

「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」

 社長 大山 泰弘(現会長) 平成10年5月〉