日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎非常時の心構え(コロナ禍の状況の中で)

〇自由な行動と豊かな暮らし

 この時期は行楽に各地に出かけていたが、昨年2月から一年以上、行動範囲はせいぜい居宅から1時間程度で神戸市からは出ていない。

 

 居宅はどちらかというと都会地にあるが、近くに自然豊かな大小の公園もあり、季節の草花や海沿いの散策を楽しみにしている。

 

 歩行がぎこちなくふらつくことが多く、草花にハッとして立ち止まるときに、踏ん張りが聞かなくなり、随分慎重にしているが。

 

 コロナ禍や身体の状態で、遠くに出かけられないことはあるにしても、身近なところにも数多の妙味がある。

 

 二歳半過ぎの孫の行動範囲は、保育園を含めて30分程度だが、わが家をはじめ、毎日がワンダーランドのようで楽しそうにはしゃぎまわっている。

 

 大坂、神戸などとても厳しい状況が続いていて、医療従事者をはじめ、関係者は大変な状況を抱えていると思うが、自由に行きたいところに行けることと、豊かな暮らしとは結びつかないと思う。

 

 ますます行動範囲は狭くなってくることもあり、心の自由、健全さを考える。

         ☆

 

〇大阪に三度目の非常事態宣言が出された。神戸市も政府に要請するとのこと。

 

「まん延防止等重点措置」より法的規制が強まるということだと思うが、一層自粛せよという「お願い」の面が強いという印象がある。

 このところのコロナウイルスの状況を見ると、確かに非常事態だと思うが。

 

  特に医療体制が逼迫した状況で、コロナ関係の重傷者が増えていて、他の重傷の病気に関しては後回しにされるおそれがあるとのこと。

  わたしは身体の状態や肺機能が悪いので、感染したら重症化の恐れがあるので、少し気がかりである。

 

 平時と非常時のこころの在り方の切り替えについて、内田樹の論考が参考になるし面白い。

----- 

 内田樹の日韓の聴衆に向けて「ポストコロナの社会」についての講演の一部が『平時と非常時』との題で内田樹の研究室に掲載された。

 

 要旨は次のようになる。

《平時と非常時では判断基準が変わる。

 平時の判断基準を非常時にも持ち込むことを「正常性バイアス」と呼ぶ。

 

 自分の身にとって不利益な情報を無視したり、リスクを過小評価する心的傾向のことである。特に自然災害や災害のときに逃げ遅れの原因となる。

 

 だが、平時から非常時への「スイッチの切り替え」は難しい。

 日常生活では可能なリスクをつねに過大評価していると生活上不自由が多くなるからである。

 

 だから、私たちは惰性的に「非常事態というのはあまり起こらないものだ」というふうに考える。そして、たしかにそうなのである。

 

 コロナウイルスの感染拡大でも、「自分は感染しない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。

 しかし、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。

 

 問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういうふるまいのことか、よくわかっていないということである。

 

 それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。いかにも「恰好悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」ふるまいではないように思えるからである。

 

 恐怖や不安に取り憑かれて浮足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。

 

 正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることではなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性・一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。

 

「主観的願望をもって客観的情勢判断に替える」というのが正常性バイアスの実態である。主観をいったん「かっこに入れて」、複数の視点から対象を観察する知的態度のことを「正常性バイアスの解除」と呼ぶのである。

 

 私が見かける「コロナ・マッチョ」たち(マスクをすること、ソーシャル・ディスタンシングをとること、頻繁に手指消毒をすること、人が密集する場を忌避することなどを「怖がり過ぎだ」と嘲弄したり、叱責したりする人たち)の共通点は「私の周りでは死者も、重症者もいない」というところから推論を始めることである。

 

「私の周り」で現認した事実をもってさしあたり「客観的事実」であるとみなす態度は、他人からの伝聞を軽々には信じないという点では現実主義的であるし、成熟した大人の態度でもあるとも言える。けれども、これは「正常性バイアス」のひとつのかたちである。

 

 正常性バイアスは「非常事態というのはなかなか起きるものではない」という蓋然性についての判断としては適切だが、自分の個人的な感覚や知見の客観性を過大評価するという点では適切でない。

 

 こういう人に対して、ふだんからものごとを複眼的にとらえる知的習慣を持っている人がいる。自分が現認したことはあくまで個人的、特殊な出来事であり、そこからの推論は一般性を要求できないという知的節度を持つ人は、いわば日常的に正常性バイアスの装着と解除を繰り返していることになる。こういう人は非常時になっても「驚かされる」ということがない。

 

 非常時というのは「自分以外の視点からの情報の取り込みを一気に増大させないと、何が起きているかよくわからない状況」のことである。

 だが、日常的に「自分以外の視点からの情報の取り込み」を行っている人にとっては、これは「スイッチの切り替え」というよりは、「目盛りを少し右に回す」くらいの動作を意味する。

 

 だから、そうすることにそれほど激しい心理的抵抗を感じずに済む。日常的に「他者の視点」から目の前の現実を眺める仕事に慣れている人間が最も非常時対応に適しているということになる。》

 

 ※内田樹の研究室『平時と非常時』(2020-11-04)

 http://blog.tatsuru.com/2020/11/04_0759.html