日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎書評:増田望三郎(著)『安曇野で夢をかなえる』(安曇野文庫 Kindle版、2018)

〇我が家感覚のゲストハウス・安曇野地球宿の主宰として、市民共感の市政をしている安曇野市議会議員として、意欲的な社会活動を展開している実践者として、常々注目している増田望三郎氏の自伝『安曇野で夢をかなえる』を、この正月に読んだ。

 

 本書は2016年に出版、電子版は2018年刊行された。案内文は次のようになっている。

〈東京から信州安曇野にアイターン移住した家族持ち男の人生記。金も学歴も地位もないが男がどのようにして安曇野で自分の夢を実現したのか。

 米や野菜を作る自給の農的生活を営みながら子育てをし、人と人とが出会い心を通い合わせることのできるゲストハウス「安曇野地球宿(あずみのちきゅうやど)」を営む。

 地方に根をおろし、自分の足元から地域と世界を見つめる生き方を実践。

 半農半X(エックス)のライフスタイルを行おうと地方移住を目指す都会の若者・子育て世代必読の書。

 街を離れ、地方へ。さあ、夢をかなえよう!〉

 

 わたしは5年前に初めて地球宿を訪問し、その後も宿泊する機会があった。

 地球宿での感想を手短にいうと、日々の暮らしに根差した生活実感と、遠慮気兼ねなく話し合える仲間に恵まれていること、その生活を支えてくれる地域の人々と風土に溶け込んでいること、地球上のどんな人たちとも繋がり、仲良く暮らしていこう、共に生きていこうとする素朴な理想が一つに溶け合って、魅力ある広場になっているとの印象を受けた。

 地球宿を含めた人の繋がりが、地域社会づくりの一つのモデルとなっていくようなことも感じた。訪問する度に、その活動に厚みと深さをましていっていることを実感している。

 

         ☆

▼『安曇野で夢をかなえる』「はじめに」で、次のことを述べる。

《僕たち増田ファミリーが、2004年4月に、この安曇野に移り住んで十二年になる。移住するにあたり、僕らには二つの夢があった。

 一つは、自分たちの食べるものを自分たちで手掛ける「農のある暮らし」を送り、その中で子育てをすること

 もう一つは、そんな農の暮らしをベースにして、人が出会い心を通い合わせることができる「宿」をやること。

 今、僕は、この二つの夢を、安曇野で存分にやっている。

「夢は、自分の言葉で、一生懸命語ることで、かなうものだ」

ということを、僕はこの本で、みなさんにお伝えしたいと思う。》

 

 本書「第一章 安曇野に移住」「第二章 地球宿の誕生」で二つの大きな夢が魅力あふれるエピソードを交えて語られる。

 

 安曇野地球宿は、2002年増田家の第1子が生まれたばかりの東京町田市時代、妻・悦子さんの「私は生産のある暮らしの中で、子どもを育てたい。」との一言から始まる。

 

 2004年の4月に信州安曇野での暮らしがスタート。越して3日目に畑にラディッシュの種をまき、1ヵ月後に食卓にのぼった。その時の悦子さんの嬉しそうなラディッシュのような明るい顔や自宅で育てた野菜を調理する悦子さんの楽しそうに作る料理はグッと美味しくなることなど、望三郎さんの農に関わる原動力となる。

 

 そして、安曇野に来て始めた農の仕事が、人が生きていくうえでの礎となる喜びと思うようになり、2005年3月には米づくりに挑戦。

 同時に望三郎さんのだれとも仲良く共に生きていこうよという「安曇野地球宿プロジェクト」という構想を、やれる範囲で開催していく。

 

 第2子も生まれ、増田一家の生産のある暮らしとそれを支える仲間、地域の人々が横糸となり、望三郎さんが描いていた理想が経糸となり、着々と地球宿という織物ができていく。

 

 その過程で、半農半Xを目指している仲間も増え、地域の人々との繋がりも確かなものになっていき、2007年に、築80数年の古民家がみつかり、仲間と改築をすすめ、そこで安曇野地球宿を始めるようになる。

 

 

▼「第一章 安曇野に移住」は次の文章から始まる。

・生計はどうする?

 移住して「農」ある暮らしをする。

 現代において、これは多くの人の理想とする生き方だと思う。

 しかし、そこには必ず、

「じゃあ、肝心の生計はどうするの?」

という問いかけがついて来る。

 それに対しての一つの答えが、

『半農半X(エックス)という生き方』である。

「半農半Xという生き方」とは、僕の尊敬する友人で、京都府綾部市在住の、塩見直紀さん が提唱した言葉だ。

 自給自足のための小さな農的暮らしを実践しながら(半農)、一方で、自分の持ち味や特技・特性を発揮した天職を行う(半X)。

 そういう、新しいライフスタイルのことだ。

 

「自分は何がしたいんだろう?」

「自分って何だろう?」

「自分にとって、本当に心が躍ることって何だろう?」

その問いかけを自分に続けた。

 僕にとっての「X」。それは、

「人と人が出会い、心を通い合わせることができる場を創る」

ということだった。

「農的な暮らしをベースにし、人が出会い、心を通い合わせることのできる宿をやろう!」

 自分の「X」が見えてきて、僕の移住への思いは俄然高まってきた。

 

・「二十日大根」から始まった

 僕たち一家が、安曇野に移住したのは、2004年4月のことだった。まずは、安曇野にある3DKの借家に住むことにした。最初の日曜日。借家に付いている八畳ほどの小さな畑に、二十日大根の種を蒔いた。一か月も経たないうちに成長し、五月のある夕食の場に、二十日大根が登場した。

 妻が「我が家で取れた、二十日大根で~ す」と嬉しそうに言った。

 娘の風も取れたての小さな赤いカブを、笑いながらかじっていた。

 自分たちの食べるものを、自分たちで手がけていく、そういう「生産のある暮らし」がしたい。その暮らしの中で子どもを育てていこう。

 僕たちの安曇野移住の目的の一つが、早くも実現した瞬間だった。

 

 そして、宿で出す主食のご飯や自家製のパンをと、友人の協力や地域の人のアドバイスによりアイガモ農法の田作り、小麦栽培と広がる。

 

 お米を作った、最初の年の娘の言葉を僕は忘れない。

「このお米は、お父さんが作ったんだよね~」

 好き嫌いも出始めた娘だが、御飯だけは一粒残らず食べた。

 

 むろんいろいろな失敗もある。草刈機で自分の右足親指を切ってしまった。ある年は二十八羽のアイガモたちが、一晩のうちにキツネに全て殺された。

 

 それでも、次のように思う。

 田んぼに、真摯に誠実に向き合うお米作りは、僕にとって、この地で暮らしていく大切な原点だ。

「僕は自分で作った米を食う」

 これからも、この安曇野でお米作りを続けていく。

 

 初夏の安曇野は、田んぼの稲の青、夏蕎麦の花の白、そして麦秋の黄色と、まるで、パッチワークのように様々な色合いが眺められる。

 地球宿の夏の朝は、ゲスト自らがパンを焼いて食べる。

 広々とした屋外で食べるパンはとても美味しい。

 

 一方、地元の仲間たちと味噌作りや震災を機に移住してきたファミリーのママと子どもたちのエピソードが紹介される。

 この辺は読んでいて、ほのぼのさせられる。そして次のように述べる。

 

 農的な暮らしを求めて、地方へと若手世代が向かう動きは、これからも増えていくだろう。ある程度の広さの畑の提供と、やり方を教えるサポートする仕組みを作れば、安曇野は農的暮らしを営める町として、もっとたくさんの移住者がやってくるのではないだろうか。

 

・仲間給仲間足

 この地に暮らしていると、果物で困ることは無い。りんご以外にも桃、ブドウ、梨、洋梨と、たくさんの果物を栽培しているご近所さんから頂く。また、地球宿の敷地や畑には、庭木としてプルーンや柿、栗の樹があり、毎年豊かに実をつけてくれる。

 それでも、一つだけブルーベリー栽培をして子どもたちと食べ放題。

 

 そして次のように言う。

 僕は全てを自分で何とか する「自給自足」ではなく、地域の仲間たちと繋がり、お互いで供給し合っていく、

「仲間給仲間足」

がいいと思っている。これは僕が作った言葉だ。

 それは農作物だけの供給だけでなく、大工さんは大工の腕を、おばあちゃんは漬物などの加工の知恵と経験を、ITに強い人はその技術を供給し合う。

 地域にある有形無形のものを交換し合うこと。または無償で贈り合ったりすることもできるようになれば、お金のやり取りも必要なくなる。

 そんな、仲間給仲間足コミュニティがいいな、と思うがどうだろうか。

 

 

▼「第二章 地球宿の誕生」は、彼の旺盛な活動の原点となるもので、本文から順を追って紹介する。

 

・心を通い合わせる宿

 安曇野に移り住んだ、一つの目的は「農ある暮らし」。

 そして、もう一つの目的は。

 それは、「人と人が出会い、心を通い合わせることのできる宿」を開くことだった。

 僕は、移住前の東京時代に、既に宿の名前を、『地球宿』と決めていた。

 日本中、世界中からこの宿にやって来て、一晩寝食を共に過ごし、仲間になり、またそれぞれの場に出発して行く。そうやって、

「地球上に、たくさんの仲間ができる」

 そんなことを願って、地球宿という名前をつけた。

 ただし、移住してすぐに地球宿ができたわけではなかった。

 

・難航

 移り住んですぐに、畑を借りて農的な暮らしを始め、友人を迎える『 カントリーイン増田家』をスタートさせるなど、僕らは自分たちの夢に向かって、今できるところで、今できる ことからやり始めていた。その一方で、地球宿をやれる物件探しも始めていた。

 

 いろいろな難航が続いたが、ご近所の知り合いの紹介で、大正の終わりに建てられた、雰囲気と表情がある古い農家の家が見つかった! しかも好きに改修していいとのこと。

 

 僕は悦子と話した。

「このような家を紹介してもらうのに、三年必要だったということなんだね」「でも、こうやって声をかけてもらえるような暮らしを、この地で三年しっかりとやって来たんだね」と。

 

 改修は、自分たちがこれから楽しむ宿。その宿を誰かに任せるのではなく、自分たちで手がけていこう。楽しんでいこう。ここまで待ったのだから、いまさら急ぐ必要もない。かくして、地元に暮らす建具屋、大工、塗装屋、そして頑張って家をセルフビルドしている四人の仲間の協力で、改修工事が始まった。

 

・地球宿、開業

 地元の仲間の、 プロの大工さんや建具屋さんが、手を尽くしてくれている一方、僕はもう一つの改修計画を進めていた。それは、

「古家を改修して宿を作ろう」

と、インターネットで、一般に向けて広く呼び掛けることだった。

 宿が完成してから「地球宿」が始まるのではなく、宿づくりから「地球宿」を始める。

 自分のやりたいことは、「人が出会い、心を通い合わせる場を作ること」。それはこの宿づくりの段階でもできること。

 むしろ、宿を立ち上げるという草創期の時こそ、一番楽しく、それを一人でも多くの人と共有したかった。

 

 五月のゴールデンウィークに、「宿づくり合宿」なるものを企画し、呼びかけたところ、東京や大阪、遠くは鳥取からもやってきてくれた。

 一週間で、のべ四十人。彼らにとって、自分が塗った壁、自分が植えたブルーベリー、そして自分が作った宿になるのだ。

 地球宿に、いろいろの人の思いがどんどん足されていく。息吹が吹き込まれていく。

「ああ、やはり自分たちで手がけてよかった」

 宿づくりが出会いの場になり、そこからまた、新たな繋がりが生まれていく。そのことこそ、僕が一番願っていたものだった。

 

 改修を始めてから四か月。地球宿は正式に宿泊施設としての許可を頂き、開業した。

 たくさんの人が関わってくれたおかげで、この場がいい意味で、増田家のものではなく、地元の仲間が集まるみんなの家になっていった。

 

 仲間が、全て手弁当でやってくれたおかげで、改修費用はわずか100万円以内。

 夢を実現するのに、必ずしも多額のお金は必要なく、むしろお金がない方が、知恵が湧き、繋がりができ、思いがけない展開が生まれたりもする。

 

「夢を語る」という作業は、絶えず、

「自分は本当に何がやりたいのか?」

を、自分自身に問いかける作業でもあった。

 僕は思う。形のある夢を実現する時でも、その夢は形ができてから始まるのではない。

 形ができる前から夢の内実は始まっている。

 

 赤ちゃんが、胎内で十月十日過ごして、時期が来れば、自らの生まれようとする力で誕生するように、地球宿という夢も、じっくりとその中身が温められ、人と出会い、心の繋がりが生まれ、自分の内実を大切に育てていく過程の中で、この地に生まれる時期が来て、生まれるべくして生まれてきたのだと思う。

 

 僕の夢は、こうやって実現できた。

 今度は、この宿に出入りする仲間たちの夢を、応援していく番だ。

 自分が与えられたように、僕も与える人になっていく。

 新たな夢が、次々と実現していく、そんな応援協力の人々の繋がり=コミュニティを作っていく。

 それが、今の僕の新たな夢だ。 

          ☆

 

「第三章 僕の巣立ち」では、大学を中退し、農を基幹としたコミューン「ヤマギシ会」に参画し、そこで20歳代の10年間を過ごす。

 その社会共同体には限界があり、集団組織の閉鎖性や硬直性からくる間違いがあったと思い、30歳で脱退することになる。

 

 だが、「理想の社会づくり」に燃える大人たちや、同年代の仲間と出合う中で、そこで得た仕事観、人間観、社会観は、僕にとってかけがえのないものとなり、自分を愛し、他者を愛し、そして社会を愛する心を育んだ、大切な二十代の十年間だったと振り返る。

 

 そこに参画することを父親に伝えたとき、「社会のことを語るのは30歳まで10年程やり続けた上でものを言え」と、勘当同然にされた父親の厳しい見守りもあり、そのことは彼の巣立ちにも感じたようだ。

 この父親の振る舞いは、とても印象に残った。

 

 本書を読んで、増田望三郎氏の家族を大切にする心とともに、“仲間力”を覚える。

 “仲間力”とは、僕の考えた言葉で、仲間を大事にする、仲間に繋げたくなる、仲間が寄っていきたくなる、さらにその仲間が彼のことを他の人に伝えたくなる。という「力」である。

 

 仲間と切磋琢磨しながらものごとをなしていく。そして、嬉しいこと、楽しいことだけではなく、悲しいこと、困ったこと、苦しいことも共に分かち合える人に包まれているのは、人が前向きに生きていくときに、大きなことだと思っている。

 

 また、彼の造語「仲間給仲間足」について、一人ひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。この相互扶助こそが社会共同体の基礎となるべきだと私は思っている。

 

 人類進化の一つの大きな要点は、「仲間と協力し合うこと」といわれている。

 知力、体力、技術力よりも“仲間力”を培うことが大切ではないだろうか。特に青年のときは。

 

 第二章の最後に、「夢を語る」という作業は、絶えず、「自分は本当に何がやりたいのか?」を、自分自身に問いかける作業でもあった。

 仲間と夢を語り合うのは、自問自答が必然である。

 そして、僕の夢は、こうやって実現できた。今度は、この宿に出入りする仲間たちの夢を、応援していく番だ。

 自分が与えられたように、僕も与える人になっていく。

 新たな夢が、次々と実現していく、そんな応援協力の人々の繋がり=コミュニティを作っていく。

 それが、今の僕の新たな夢だ。

 

 こうして、「第四章 地球宿で夢を語る」「第五章 安曇野賛歌」「第六章 安曇野には幸せの風が吹いている」「安曇野で夢をかなえる」と、意欲的で面白い人々の繋がり=コミュニティづくりが展開する。

 

 近年、地方へ「ターン」し始めている青年や家族が増えていると聞く。

 各地方の独自性や特徴を重視・尊重し、そこに生きる人間たちや自然との関係性を大事にし、グローバル化する市場経済に振り回されない生き方をしようとの動きである。

 

 さらに、ここが自分たちの生きる世界だという地域をしっかりもちながら、そういうローカルな世界を守ろうとする人々と連帯していく。

 

 本書から、安曇野の風土の中で、意欲的で面白い人々の繋がり=コミュニティが着々とつくられていっているのを感じる。