日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎石川直樹『いま生きているという冒険』

〇「老い」への冒険
 安曇野地球宿のスタッフK君が、2年間の体験を終えて、新たな一歩を踏み出すとのメールが送られてきて、何か応えたくなり返信のメールを送った。2度地球宿を訪問し、彼の存在の大きさを実感していて、この期間、望さんが政治に専念できたのも、彼がしっかり守っていてくれたのも大きかったと思う。

 その中で、最近読んだ本でとても面白い本があったので、それを紹介した。それは、最近遊びに来た娘から、滅茶苦茶面白いから読んでみないかと言われ、一気に読んでしまった。いろいろ考えさせられることも多々あり、ここでも紹介したいと思う。

 

〇石川直樹『いま生きているという冒険 (よりみちパン!セ)』理論社について。
 高校2年のインド旅行から始まる、「旅とは何だ? 経験とは何だ? 世界とは何だ? 生きるとは何だ?」と、極限の大いなる自然と地球上のさまざまな人々と出会い感じたことを綴ったもの。
 著者は今では文章や写真家としてかなり著名になっているが、この書籍は、無名の高校2年から20歳代前半に経験したことを、20代後半に、主に中・高校生対象に書いたものだ。

 目次は、1章「世界を経験する方法としての旅 インド一人旅/2章 冒険に出かけよう アラスカの山と川/3章 自分の目で見て、身体で感じること 北極から南極へ/4章 いま生きているという冒険 七大陸最高峰とチョモランマ/5章 心のなかに島が見えるか ミクロネシアに伝わる星の航海術/6章 惑星の神話へ 熱気球太平洋横断/7章 もう一つの世界へ 想像力の旅。となっている。

 

 ときに生死の境をさまようようなことも、淡々と記録していて、さりげなく語っていることに深い味わいがある。随時掲載している写真も見応えがあり、ぐいぐい引き込まれていく。

 インドの旅の章では「インドという場所は、ヨーロッパやアメリカなどと違って、街を歩いているだけで生と死について自然と意識的になってしまう不思議な土地です。ぼくはそのような場所に十代の半ばで出会ってしまったがゆえに、生の意識が希薄な日本社会に本の少しの違和感を抱いて、ことさら世界に目が向くようになっていったのです。」とある。

 白眉なのは最終章だ。現在の彼の関心ごとにつながっていく心映えが語られている。

「生まれたばかりの子供にとって、世界は異質なものに溢れています。もともと知り得ていたものなど何もないので、あるがままの世界が発する声にただ耳を澄ますしかありません。目の前に覆いかぶさってくる光の洪水に身をまかせるしかないのです。そういった意味で、子供たちは究極の旅人であり冒険者だといえるでしょう。」

 とはじまり、著者は「冒険家」と呼ばれることに違和感を覚えるという。

 

・「現実に何を体験するか、どこに行くかということはさして重要なことではないのです。心を揺さぶる何かに向かい合っているか、ということがもっとも大切なことだとぼくは思います。だから、人によっては、あえていまここにある現実に踏みとどまりながら大きな旅に出る人もいるでしょうし、ここではない別の場所に身を投げ出すことによってはじめて旅の実感を得る人もいるでしょう。

 ぼくが冒険家という肩書に違和感を抱く理由がわかっていただけたでしょうか。いま生きているという冒険を行っている多くの人々を目の前にしながら、登山や川下りや航海をしただけで、「すごい冒険だ」などとは到底思えないのです。」

 

 著者は「生きる」ということがそれ自体で冒険なのではないかと考えている。
 強引に私の関心ごとに引き付けていえば、いまだかって経験のしたことのない超高齢化社会での、その深さを体験したことがない「老い」への冒険がそろそろ始まろうとしているのではないか。その見方でいこうと思っている。

 

【参照資料】
※終章からいくつが抜粋する

「旅をすることで世界を経験し、想像力の強度を高め、自分自身を未来へと常に投げ出しながら、ようやく近づいてきた新しい世界をぼくはなんとか受け入れていきたいと思いました。そうすれば、さまざまな境界線をすり抜けて、世界の中にいるたった一人の「ぼく」として生きていけるきがするからです。」

「スペースシャトルに乗って宇宙に飛び出してみたいという願いをもつ一方で、ミクロネシアの航海者のように、海の上で宇宙のなかに自分を入り込ませられる人々がいることを、ぼくは忘れません。ニュージーランドの原生林で感じた一つの森がすべての森であるという思いは、空の先にある宇宙と自分の身体のなかにある宇宙を共振させるためのヒントになると思うのです。」

「家の玄関を出て見上げた先にある曇った空こそがすべての空であり、家から駅に向かう途中に感じるかすかな風のなかに、もしかしたら世界のすべてが、そして未知の世界にいたる通路がかくされているのかもしれません。」

「いまぼくたちが生きている物質的な空間とは別の世界が確かにあって、それは「ここ」や「あそこ」にあるのではなく、あらゆる場所に存在しています。その世界への通路は、いわゆる「聖地」と呼ばれる場所にひらかれていたり、あるいは想起する力によって自分自身の中にに引っ張り込むことも可能になるでしょう」

「いままで出会ったいくつもの世界や、たくさんの人の顔、なによりも大切だった人の笑顔を思い描き、ともに過ごしたかけがえのない時間について心のなかでくり返し問いつづけながら、いま生きているという冒険にふたたび飛び込んでいくことしか、ぼくにはできないのです。」
(石川直樹『いま生きているという冒険 (よりみちパン!セ)』理論社、2011より)