〇『敗北力−−Later Works』は、2015年7月、93歳で死去した哲学者、鶴見俊輔さんの遺著ともいうべき本。
「Later Works=レイター・ワークス」は鶴見さん自身が書き留めていた言葉で「晩年の作品集」という意味合いになるのか。文芸評論家の加藤典洋さんが付した「解説」によると、鶴見さんが生前に自選していた23編の文章と、未発表の詩5編、単行本未収録の原稿12編(未発表3編を含む)が収められている。
「著者自編」に収録された「なれなかったもの」「敗北力」「日本人は状況から何をまなぶか」「身ぶり手ぶりから始めよう」「二〇一一年を生きる君たちへ」など23編のこれまで発表された文章や単行本未収録の原稿12編にはさまざまな対象、人物が取り上げられている。そこには、著者が長い歳月をかけて練り上げ、血肉と化した基底音が響いている。
題名の「敗北力」は「『もうろく帖』第十七巻」の「一月八日」に記録している。
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敗北の力を見る。
一億の日本人のひとり
ひとりにある敗北の力を。
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また、「敗北力」というエッセイは、2011年10月脳梗塞で倒れ、発信することに困難を伴うようになる直前に書かれた短文(『世界』2011年5月号)からのもの。
〈自分の力が衰えたのに気がついて、「もうろく帖」を書きはじめたのは七十歳のとき。その第十七巻に入り、八十八歳を越えた。自分のつくったその本を読んで、今年一月八日の分で出会ったのは、敗北力という考えである。敗北力は、どういう条件を満たすときに自分が敗北するかの認識と、その敗北をどのように受け止めるかの気構えから成る。〉
そして次のように述べる
〈今回の原子炉事故に対して、日本人はどれほどの敗北力をもって対することができるか。これは日本文明の蹉跌だけではなく、世界文明の蹉跌につながるという想像力を、日本の知識人はもつことができるか。原子炉をつくりはじめた初期のころ、武谷三男が、こんなに狭い、地震の多い島国に、いくつも原子炉をつくってどうなるのか、と言ったことを思い起こす。この人は、もういない。〉
はじめに軍国主義に押し切られ自らまねいた大東亜戦争があった。その終わりに米国は、軍事上の必要もなく、すでに戦力を失った日本に原爆を二つ落とした。
そして次のように述べる。
〈このことから出発しようと考える日本人はいたか。そのことに気がつく米国人はいたか。その二つの記憶が今回の惨害のすぐ前に置かれる。
軍事上の必要もなく二つの原爆を落とされた日本人の「敗北力」が、六十五年の空白をおいて問われている。〉
(「身ぶり手ぶりから始めよう」〔朝日新聞、2011.3.31〕から)
この国の近代化について、自らが起こした戦争と敗戦について、広島と長崎に落とされた原爆について、東日本大震災と原発事故について、さまざまな主題を論じながら鶴見氏が繰り返し語っているのは「敗北」をどのように受けとめるかということだ。
なぜ、どのように敗北したのかの認識と、敗北にどう対処するかの気構えがないとき、同じ失敗を人はくりかえす。
広島・長崎への原爆をヒポクラテス以来の自然科学の歴史のなかで考える。歴史を大きなスパンで捉え、原発事故を日本文明だけでなく世界文明の蹉跌として考える想像力をもつ。
また、そうならないための「認識と気構え」について、その態度をさまざまな先人を取り上げながら語っている。
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巻頭の未発表の詩5編は暗示のごとく、さまざまなことを思い起こす。
・「無題」
棒を
一本たてる。
ひろってきた
木のはし一個。
今はない人の
思いが
あつまってくる
自分ひとりの儀式。
流れついた
この岸辺に。
わたしはこの詩を読んで、鶴見著『悼詞』の「あとがき」を想い浮かべた。
『悼詞』は、鶴見氏が、交わりのあった百数十人の故人について悼む心を綴ったもの。
《「あとがき」
私の今いるところは陸地であるとしても波打際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。
私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。
今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。
しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。
(二〇〇八年八月一九日 鶴見俊輔)》
ご自分の「悼詞」を自身に向けて編んだものとして、読むこともできるのではないかと。
「著者自編」は、「なれなかったもの」からはじまる。
「なれなかったもの」は、「なろうとは思わなかった」ともつながるし、なりえなかった可能性をつぶしていくと、今やっていることに落ち着かざるを得ないともいう。
それが、鶴見さんの根拠地となった。
また、じぶんにとってかなり影響を受け、「あの人のようにはなれなかった自分ではあるが」、決して忘れられない、忘れるわけにはいかない人々の、その業績を簡潔に表現し、その人となり、身振り、態度を紹介していく。
本書を通して、自分の心をゆききする人たちを一本の棒に集め、自分ひとりの儀式をするごとく。
「あとがき」に次の発言がある。
《私の著作は全部、おふくろに対して『でも、そんなこと言ったって……』という言い訳、悲鳴みたいなものなんです。それと、おふくろが私のことを悪い人間って言うんだから、悪い人間なんだ。だけど、自分としては自由が欲しいんですね。自分にとっての自由とは、悪人として生きることなんです》
(私の著作は全部、おふくろに対する言い訳『ゆうゆう』二〇〇三年六月号)
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巻頭の次の詩も味わい深い。
・「おぼつかなく」
記号論理学から
はずれた記号
「かがく」なんてものの
できるまえの
ただの「か」
そのりんかくは
それでないものと
の区別さえ
おぼつかなく、
ものと記号のわかれめが
つくのか
つかないのか
ぶよぶよとふわふわと
たよりなく
それを手がかりに
私は考える
といえるのか
ただ一つ言いたいことは、分類され
ならべられた記号から考えはじめないということだ。
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本書には次の言葉がある。 「『知識』はね、『自分の中の態度』に根差していなければ、『思想』になりません」
鶴見氏は、思想の底にある態度ということを重く見る立場だ。それは言いかえれば反射ということの重視といえる。「反射とは、日常的に反復することによって、肉体にしみついた反応の仕方のこと」(『戦後とは何か』など)と、態度と反射を度々おなじような意味合いで使っている。
信念も態度も、時代や社会、環境の影響を受けながら、生育段階での様々な体験、経験から形成されていく。
態度は、生れ落ちてからの母親(あるいは母親がわりのだれか)との関係、家庭(生育)環境に大きな影響をうけ、その後の幼少期、児童期での様々な体験を経て、先ずは、その人にとっての体に蓄積された反射や身体的な感性として培われていくことからつくられていく。
「反射」は物質や生き物、すべてにみられる現象に対して、「態度」は人間についてのみみられる現象である。そして「態度」はすべて「反射」を基礎としている。
信念は、種々の体験、経験によって形成されていくが、どこまでも言葉の習得を欠かすことができない観念的なもので、知識、理論、あるいは学問、教育などによって色濃く影響されたものである。
人のもつ「曖昧さ」についても鶴見氏は度々触れている。
「曖昧というのは、私にとってたいへん重要なんです。----ぼんやりしているけれども遠くまでいく概念、という考え方。(『期待と回想』晶文社、1997より)
「分類されたもの」ではなく、まだ「分類」されていないもの、「未分節」のものから「考える」ということが始まるのではないか。
それは「ぶよぶよ」「ふわふわ」としていて、なんとも頼りなく「おぼつかない」。しかし既成の常識や「権力」からはほど遠い。自分の中にだけあるもの、という感じがする。
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巻頭に次の詩がある。
・「それをさがしあてたい」
憲法、それは私から遠い
むしろ、自分からはなれず、
私の根の中に、
憲法とひびきあう何かをさがしあてなければ、
私には憲法をささえることはできない。
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「自著未収録稿」の「兵役拒否と日本人」の中で、憲法の起草に関わった幣原喜重郎のことを書いている。
「幣原を決意させた満員電車の声」
〈戦後になって、米軍総司令部が草案をつくった憲法を通し、突如としてあらゆる戦争を否定する原理が生まれた。しかしその発案者は、いかなる思想的系譜、いかなる文献に基づいて、その非戦の条文が生まれたかをいっさい説いてない。幣原喜重郎の自伝に『外交五〇年』という本がある。
彼はその中で「よくアメリカ人が日本にやってきて、今度の新憲法というものは、日本人の意志に反して総司令部のほうからせ迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関するかぎりそうじゃない、決して誰からも強いられたんではないのである」
「私は戦後、はからずも内閣組閣を命ぜられ、総理の職についたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。」といっている。〉
幣原は八月十五日に満員電車の中にいる。そして、こんな乗客の声を聞く。
〈いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて屠殺場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」
初めはどなっていたのが、最後にはオイオイ泣きだした。そうすると、乗っていた群衆がそれに呼応して「そうだ! そうだ!」とわいわい騒ぐ。(略)
この人が、戦後組閣したとき考えたこと、また憲法草案について相談を受けたときに考えたことは、バンヤンでも、ミルトンでもなく、カント、ルソーでもなく、電車の中で聞いたこの男の声だという。
そして、あの光景を思い出して「これは何とかして、あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく、努めなくてはならぬ、と堅く決心したのだった。それで憲法のなかに未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならぬということは、ほかの人は知らぬが、私だけに関するかぎり前に述べた信念からであった」といっている。〉
幣原喜重郎氏は、市井の一人の言った言葉を、ととのえなおして「戦争の放棄」という「思想/理念」に高めた。
「だまし討ちにされた」という怒りと「戦争の放棄」を結びつけることはむずかしいが、そのむずかしさのなかにこそ「思想」というものがある。生きている「肉体(いのち)」がある。
鶴見氏は、幣原の「体験」を引用することで、自分自身の肉体を、幣原の聞いた人の声につなげ、その声を引き継ごうとしている。
そして一貫して、何を教えられたかを自分に引きつけて、学びほぐし、ひびきあう何かをさがしあてて、自身の根にしていく。
鶴見氏の思想を一貫して支えていたものは、「自分の中の根」であり、「自分の中の態度」「へその緒」であった。それを見い出し、確かめ、支え、深めることに思想の拠点を置いた。
また、そうしたことに生きた人間について語ることで自分を語る。本書のように。