日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ないない尽くしの私から

〇おぐらやま農場からのお便り
 先日、おぐらやま農場から「あいかの香り・名月・王林・洋梨・南水梨」のバラエティーに富んだセットがおくられてきて、農場便りや紹介文も含めて、日々の暮らしに楽しみを添えている。

 以前のブログでも触れたが、農場は炭素循環環境を用意することが、作物たちに一番喜ばれる道ではないか、農産物を食べてもらう人たちも喜ぶ道ではないかと考えたそうだ

 そこでは、Wwoof(ウーフ:お金のやり取りなしで「食事・宿泊場所」と「力」そして「知識:経験」を交換する仕組み)のホストになっていて、このシステムの可能性を描いている。
安曇野に限らないが、高齢化している農村地帯における地域社会づくりに齎していくような可能性も感じた。

 農場の生産物の一つ、リンゴの栽培では「本づくり栽培」といわれる品質本位の栽培方法を取り入れている。現在のリンゴ産地では「わい化栽培」という人の管理しやすい栽培方式が多い。生産物と共に送られてくる通信からは、自然界や生物の本来持っている力を最大限に引き出すことを願っているのが伝わってくる。

 

 今回の通信に、興味をそそる話が掲載されているので一部紹介する。
【「肥料と水」で育つ作物は必ずと言っていいほど「農薬」もセットにならざるを得ず(病害虫に弱い作物になりやすい)、これらの近代的な農法へのアンチテーゼとして、有機農法、自然農法、自然栽培、といろんな名前がついて、いろんな先生が現れて、いろんな組織もつくられてきているのが今の状況です。ところが、〇〇農法と名付けて、その提唱者の言ったことを基準にものを考え始めると、目の前の土や作物や微生物たちが基準になりにくい。これは私自身が体験した落とし穴でした。

 色々な先生のいうことに耳を傾け、その真意を理解しようと話を聴くのですが、おそらくはそこからが勝負なのです。私が農業者である限り、常に私たちの目の前にはりんごの樹があり、その木たちが根を張る大地があり、大地の中には現実にものすごい数の微生物たちが生きている。この「いのち」達が暮らしている今、ここで、何が起こっているのか、そこが農業者である私の基準になり、本当に必要なことは何かが作物や土のいのち達と通じ合えた時、それを食した人たちが、「健康ないのち」を育むことができる食べ物が収穫できるようになると思います。

 炭素循環農法という農法があるわけではなく、偉い先生がいるわけでもない。それを普及しようという組織もない。バイブルにできるような書物もない。このないない尽くしこそ、私のような普通の人が目の前の事象にいつもある自然の理「いのちのしくみ」を基準に考え行動しようとする時には、とても大切な要素になっています。人間の考えが基準になる限り、人間の都合に合わないことと戦いつづけてしまう。】

 

〇出雲に移住してから、自家用の野菜をつくりはじめ、子どもや知人に随時いろいろなものを贈っていた。だんだん自分たち家族だけではなく、そのことも含めて作業計画を立て、だんだん面白さ、張合いのようなものが出てきて、能力いっぱいに作っていた。

 引っ越しに際して子どもたちは、畑がなくなることで、私たちの楽しみがなくなるのではないかと心配していた。ある時まで、娘は、身近に畑ができるような物件も探していた。

 相応しい市民農園などがあれば無理のないところで関わろうと考えていたが、ことさら高齢化した私たちが手掛けることもないと思っている。 むしろ、いろいろ取り組んでいる人たちと繋がっていくことが大事だと思っている。

 先日も三田市の友人が遊びに来た時に、奥さん手製のショウガを持ってきてくれて、早速使い始めた。その出来栄えに妻はいたく感激して、年間契約をしたいなと言い始めている。

 おぐらやま農場からの通信記事は、素人ながら野菜を育てていた私から見ても、全面的に「そうだよな」と頷いている。

  

【参照資料】
※(ザ・コラム)「選挙の後に 毎日が投票日かもしれない」稲垣みえ子 朝日新聞から
 選挙とは何か。真剣に考えるきっかけをくれたのは、大阪の橋下徹市長でした。
 橋下氏といえば「選挙至上主義」。大阪府知事時代、自ら率いる地域政党が府議会で過半数を取ると、学校行事で君が代を起立斉唱するよう先生に義務づける条例づくりなど、異論も多い大胆な施策をどんどん実行しはじめました。当時、私は大阪社会部のデスクで、おかしいではないかと追及した。ところが氏は、選挙で選ばれた者が民意であり、不満なら候補者を立てて選挙で自分を落とせばよいというのです。
 痛いところを突かれたと思いました。
 少数意見の尊重は民主主義の大切な理念ですが、何をもって「尊重」とするかは定かではありません。一方で、新聞は日ごろ「公正な選挙は民主主義の根幹」と訴えているのです。なのに、選挙の勝者が強いリーダーシップを発揮すると文句を言う。権力監視がマスコミの役割とはいえ、我ながらどうもスッキリしない。
 選挙とは、政治とは何だろう。考えるほどに、だんだん選挙がキライになってきました。「選挙=民主主義」だとすれば、我々が力を行使できるのはせいぜい数年に一度です。主権者とおだてられながら、なんと空しい存在でしょう。

 そんなある日、近所のおしゃれな雑貨店でこんな貼り紙を見たのです。
「お買い物とは、どんな社会に一票を投じるかということ。」

 ハッとしました。買い物=欲を満たす行為。ずっとそう思っていた。でも、確かにそれだけではありません。お金という対価を通じて、それを売る人、作る人を支持し、応援する行為でもある。ささやかな投票です。
 選挙は大事です。でも選挙以外のこと、すなわち、一人一人が何を買い、日々をどう暮らし、何を食べ、どんな仕事をし、だれに感謝を伝え……ということは、もっともっと大事ではないか。逆に言えば、そうしたベースを大切にし尽くして初めて、意味のある選挙が行われるのではないか。投票しさえすれば、誰かがよい社会、よい暮らしを実現してくれるわけじゃない。
 当たり前のことですが、どうもそこを忘れていたことに気づいたのです。

以来、「お金=投票券」というつもりでお金を使っています。
例えば、私の愛する日本酒。私の好きな酒を造る人、そんな造り手の思いを消費者に届けようと奮闘する酒屋を支持する気合を込めてお金を払います。「がんばって」「応援してるよ」と心の中でつぶやいてみる。そうつぶやけない酒は(できるだけ)飲まない。この行動を、すべての買い物で実現しようとしています。
 そう思うと、買い物って実に爽やかで豊かな行為です。買ったモノを楽しんで使うだけでなく、買うことが自分にとって心地よい世の中を作ることにつながっていく。お金の持つ可能性が何倍にも広がり、生きることが楽しくなりました。自分を支えてくれる人が幸せになって初めて、自分も幸せになれることにも気づかされました。私はひとりではなかったのです。
 今や消費者というより、好きな働き手を支える投資家の気分です。日々闘いです。

 先日、優しい老夫婦が切り盛りする、昔ながらの近所の手作り豆腐屋が店を閉めました。悔しいです。後継ぎがおらず、私が数百円払ってせっせと豆腐を買うだけでは力不足でした。ネットで全国の豆腐屋をもり立てる活動を起こすとか、もっとできることがあったのではと悩んでいます。そして、こんな豆腐屋さんが生き残っていけるような政治をのぞみたいのです。
 私にできること。政治にできること。まずはそこからしっかり考える。そう決意を新たにする年の初めを過ごしています。
(「ザ・コラム 選挙の後に 毎日が投票日かもしれない」 稲垣みえ子 朝日新聞デジタル 2015年1月3日より)

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 私たちは、長い間ものを買うときに、品質とともに値段を気にし、少しでも「特」になる安くていいものを得られるようなところを狙って、いろいろ調べて買っていた。
 そのほうが、特定な関係による変なしがらみがまとわりつくことなく、自由な感じがしていた。

 だが、出雲に移住してから、様々な人と交流を重ねるうちに、徐々になじみの人とそのお店や会社が増えていき、次第に値段というよりも、総合的な信頼感のようなものでつながりができてきて、そこで必要なことを誂えるようになっていった。

 そうなると、買い手と売り手との関係でなくなり、業務以外のいろいろな日常的な相談事も交わし合うようになっていく人も増えていく。今度の引っ越しに際して、そのような方たちにもお世話になった。

 緩やかではあるが、このような交流が地域社会づくりにつながっていくように思っている。神戸に移住してからも、そのような関係で繋がっていきたいと思っている。