日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎他者の異質性を尊重する社会(中島義道『「対話」のない社会から)

〇中島義道『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』を読む。

 第1章「沈黙する学生の群れ」で、「何か質問は?」と教師が語りかけても沈黙を続ける学生たちなど具体的なご自分の体験の事例をあげ、第2章「アアセヨ・コウセヨという言葉の氾濫」で、街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板などの氾濫を諸外国と比較しながら、具体的な体験を語る。

 

 第1章を読みながら、言わんとすることは分かるが、そんなに頑なに物事を捉えなくてもと思って読んでいたが、第2章を読み進めているうちに、そうだよなと思うのと同時にそのような現象に随分鈍くなっている自分を思い、徐々に著者の切実な思いが伝わってきた。

 

 ある書籍案内に〈なぜこの国の人々は、個人同士が正面から向き合う「対話」を避けるのか? そして、かくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか? 著者は、日本的思いやり・優しさこそが、「対話」を妨げていると指摘。誰からも言葉を奪うことのない、風通しよい社会の実現を願って、現代日本の精神風土の「根」に迫った一書である。〉とあるように、考えさせられる著である。

 

 第1章、第2章の具体な体験例を踏まえて、第3章「〈対話〉とは何か」に入る。

 

▼第3章「〈対話〉とは何か」

〈会話〉は〈対話〉と違う、また〈対話〉は討論とは違うとし、川端康成『雪国』、山田洋次監督「フーテンの寅さん」の例をあげて次のように述べる。

〈この国の人々は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて執念深く互いの差異を確認しながら展開してゆく〈対話〉をひどく嫌い、表出された言葉の内実より言葉を投げ合う全体の雰囲気の中で、漠然と且つ微妙に互いの「人間性」を理解し合う「会話」を大層好むのである。(P105)〉

 

 言葉の「裏」をさぐる文化で、芥川龍之介『手巾』や千利休と秀吉のやり取りの例を出し、夏目漱石『彼岸過迄』や樋口一葉『にごりえ』のリアルな〈会話〉に触れる。

 この一連の具体例は、なんとも面白い。

 

〈対話〉とは全裸の格闘技である。そして個人間の「小さな差異」を大切にするもので、プラトンの「対話篇」にある「パイドン」は、対話の理想形態であると述べる。

  そして、〈対話〉の基本原理を次のようにまとめている。

 

「〈対話〉の基本原理(p132~p133)

(1)あくまでも一対一の関係であること。

(2)人間関係が完全に対等であること。<対話>が言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと。

(3)「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人として見ること。

(4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。

(5)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。

(6)いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならないこと。

(7)いかなる相手の質問に大しても答えようと努力すること。

(8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること。

(9)相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との繊細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。

(10)社会通念や常識に納まることを避け、常に新しい了解へと向かってゆくこと。

(11)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、常に開かれてあること。

(12)それぞれの<対話>は独立であり、以前の<対話>でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観を棄てること。」

 

(5)について次のことを補足する。

《〈対話〉とは個人と個人とが「生きた」言葉を投げ合うことであるから、それぞれの個人は交換不可能である。何を語ったかのみならず、だれが語ったかが重要なファクターである。すなわち、〈対話〉とは、科学的議論のようにー個人がみずからの人生を消去して語ることではなく、むしろ人生をまるごと背負って語ることなのである。

 また、身体障害者、被差別部落出身者、犯罪者、同性愛者、天才、凡人、勝者、敗者、それぞれの体験を自ら丸ごと引きずって、その上でこれらをダシにして、あるいは武器にして感情的に訴えるのではなく、あくまでも普遍的な原理を目指して論理的に精緻に語ることである。》

 

 

▼第4章「〈対話〉の敵―優しさ・思いやり」

「思いやり」が〈対話〉をつぶすとして、わが国の人間関係において、最も重視されるのは、「他人を思いやる」ことであり、そのためには「本当のことを言わないこと」である、この「公理」とも言える大原則に、私は(タテマエ上の「哲学者」として)肌に滲みるほどの違和感を覚えたのである。これは、言葉(ロゴス)を大切にしない文化であり、いや言葉(ロゴス)を潰す文化であるという。

 

〈この国では、真実を語ることよりも「思いやり」を優先する教育者が少なくない。(略)みな、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、〈対話〉を拒否する社会をつくりたいのである。それも「思いやり」や「優しさ」という美名のもとに。(P144)〉

 

『「思いやり」はエゴイズムの変形である』で次のことを述べる。

 竹内靖雄は、『日本人の行動文法』(東洋経済新報社)において「思いやり」を「相手の立場、感情を想像して攻撃抑制的な態度をとること」と記述したうえで、とこれはエゴイズムの変形であると断じている。

 

〈「思いやりは「自分本位」から出てきた行動文法(ソシオグラマー)である。「自分が他人 からいやなことをされたくないから、他人にもそのいやがることをしない」の であって、思いやりは自己利益の追求という原則に矛盾しないどころか、利己主義の変形なのである。すべては「「自分の利益本位」という原則から説明できることであって、日本人の思いやりは無条件に他人を尊重することとは違う。(竹内靖雄『日本人の行動文法』より)」

 

「思いやり」や「優しさ」を押しつけることで、人との対決を避け、結局は対話をさせない風土が根付いてしまっていると述べている。「思いやり」や「優しさ」という美名の元に相手を傷つけないよう配慮し沈黙する社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し最終的には責任を引き受ける社会を目指し、他者の異質性を尊重すべきとしている。

 

 真の「思いやり」は勇気を伴うものであり、「喜んでもらう」という報酬を一切求めない、自分に降りかかる損を覚悟したうえでの真心である。

 

「思いやり」と「いじめ」の関係では、「思いやり」の陰に「利己主義」がうごめいていて、見て見ぬふりをしたり、すべてを「なりゆき」にまかせたりして、断固とした行動をとらず、最終的に責任を引き受ける人がいないことで、当事者が精神的に追い込まれる。

 

 いじめの一方で盛んに唱えられる「思いやり」「優しさ」についても、著者は批判する。すべての人に気に入られ、満足されるような発言はあり得ないという。ある人が「思いやり」や「優しさ」を、強要することが、他の人びとにとっては「暴力」になることさえあるのだともいう。

 

 そして宮崎隆太郎『傷つきやすい子どもたち』(三一書房)の洞察に富んだ指摘をあげる。

〈やさしさの度合いによってランクづけされてしまうような人間観や「障害児」論は、ずいぶんむりがあるし偽善的でもあります。------

「福祉」の本質がやさしさで語りつくされてしまっている。しかもそれが、「やさしい子」という言葉で、全人格的に語られてしまっている。そのことが怖いと思います。先ほどから言い続けてきたように、心の複相性・重層性の観点からすれば、「やさしさ」が人の心のすべてを覆ってしまっているはずはけっしてありません。〉

 

〈最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。ひとことで言うと、自分に異質なものとしての他者を徹底的に恐れるのである。〉とし、この国では「他人を傷つけず自分も傷つかないことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」であるという。

 

 

▼第5章「〈対話〉を圧殺する風土」

 この国では「集団において個々人の対立を避けるにはどうしたらよいか」という問題を解決することにほぼすべての労力が費やされるとし、次のことを述べる。

 

 個々人が意見を言い合うのでなく、社会(会議でも可)の全体的な「空気」の流れを読んで、「空気」を乱す(雰囲気を壊す)発言は押し殺し、「空気」通りの発言を繰り返す。様々な場において、同じことを強いられる中で、各人は自分の考えを持たなくなる。責任を持たなくなる。それが日本社会なのだ、という。

 

 そこに、すべての人が全体を配慮し、自己の痛みを語らず、他者との差異を語らない淀んだ和やかな空気が流れる。この空気の中で、恐ろしいことに、各人は自分の考えをもたなくなる。責任をもたなくなるのだ。

 

 竹内靖雄『日本人の行動文法』はこうした「空気支配」に身をゆだねる日本人の行動様式を「状況功利主義」と呼んで、状況を与えられたものとしての「状況受容」を基本原則とする。ここから諸規則が出てくるとしている。

 

〈竹内が指摘しているように、重大な案件であればあるほど、「こうするよりほかに仕方がない」状況へとみんなで追い込み、あとで非難されたときにも、各人が「こうするよりほかに仕方がなかった」と言い逃れることのできる黄金の抜け道をつくっておく。状況功利主義は何よりも個人責任を回避する方法を教えてくれるのだ。(P174)〉

 

「状況功利主義」こそ「和の精神」の内実と中島氏は言う。

 この国で要求されるのは「和の精神」である。和とは現状に不満を持つもの、疑問を投げかける者、変えてゆこうとする者にとっては重い足かせである。新しい視点や革命的な見解をつぶしてゆく。いいたいことを心のうちにしまって習慣的な挨拶をこなす社会。かくして「和の精神」がゆきわたっているところではいつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解が支配することになる。

 

 中島氏は「わが国では、(----)自分と他者との(微妙な)差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場(ここに「対話」が開かれる)が完全に取り払われている」として、『「他人の痛み」がわかるのは難しい』で次のように述べる。

 

《「他人の痛みのわかる人になろう」というスローガンに異存はない。だがこの国では、この標語が「自己の痛みの拡大形態として他人の痛みをわかる」という図式になりやすいのだ。これは危険な思想である。なぜなら、自己の痛みの延長としてしか他人の痛みを理解できないことになるから。私がつらいとき他人もつらいであろうとまでは言えるが、私がつらくないときでも他人はつらいかもしれない、という発想にはなりにくい。[…]自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。だから、「他人の痛み」をわかるのはじつはたいへんなことなのである。P.189》

 

 そして、『「他者」とは「私」の拡大形態ではない』で次のことを述べる。

《〈対話〉とは他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく、「大切にする」こと、ここにスベテの鍵がある。

 だが、他者との対立を大切にするようにと教えても、他者の存在が希薄な社会においては何をしていいか分からない。そうなのだ。本当の鍵は他者の重みをしっかりととらえることなのだ。他者は自分の拡大形態ではないこと、それは自分と異質な存在者であること。よって他者を理解すること、他者によって理解されることは、本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。(P190)》

 

 

▼第6章「〈対話〉のある社会」で次のように述べる。

・私語が蔓延しておりながら発言がまったくない社会ではなく、私語がなく、素朴な「なぜ? 」という疑問や「そうではない」という反論がフッと口をついて出てくる社会。

・弱者の声をおしつぶすのではなく、耳を澄まして忍耐づよくその声を聞く社会。

・漠然とした「空気」に支配されて徹底的に責任を回避する社会ではなく、あくまでも自己決定し、自己責任を取る社会。

・アアしましょう。コウしましょうという管理標語・管理放送がほとんどなく、各人が自分の判断にもとづいて動く社会。

・紋切型・因習的・非個性的な言葉の使用は尊重されず、そうした言葉使用に対しては、「退屈だ」という声があがる社会。

・相手に勝とうとして言葉を駆使するのではなく、真実を知ろうとして言葉を駆使する社会。

・「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をグイと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し、最終的には潔く責任を引き受ける社会。

・対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にし、そこから新しい発展を求めてゆく社会。

・他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会。

        ☆

 

「〈対話〉のない社会」に鈍感になっているのか、ふだんは著者が言うような〈対話〉をしていないし、対立を避けてしまっているような面もある。しかし、何かとそれぞれの差異を尊重しながら、〈対話〉はとても大事だと思う。

 

 特に見解の大いに異なることが生じたとき、あるいは未曾有の災害に見舞われて何をするのがいいのかよくわからないような状況において、それぞれの価値観が違うなかで、それぞれの選択がまったく異なってしまい、生活のあちこちで対立が生じてしまうというようなことが生じる。そうしたときには対立を封じ込めてしまうのではなく、きちんと〈対話〉をして対立を確認し合い、それぞれが納得した上で責任をもって選択をしていくことが必要だと思う。

 

 全体を通して、事例の取り上げ方や、他の優れた書籍からの引用が豊富で、多少強引なところもあるが、日本文化論としても非常に説得力があり、いろいろ考えさせられた。

 

※中島義道『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』(PHP新書、1997)