〇『対話のレッスン』は平田氏のコミュニケーション論のエッセンスを書き綴った1997年から2000年までの連載記事である。
縦軸に演劇論を展開し、横軸に「対話」の構造、「会話」との違いを述べ、日本人には欠落してと思われる「対話」のあり方を探っていく。
対話のあり方について一貫して考えてきた著者の見解として2019年に次のように述べている。
▼〈『他者への寛容を学ぶために。「対話的な学び」に必要なもの(2019.7.16)
〈演説、対論、対話、会話、独り言など、人間が話す言葉には、様々なカテゴリーがある。その中でも特に、「対話」と「会話」を区別することが重要だ。
「対話」は「dialogue」、「会話」は「conversation」。英語ではこの二つの単語は大きく意味が異なるのだが、日本語ではこの区別が曖昧だ。というよりも、日本語では、「対話」という概念が薄い。だから辞書を引くと、「対話=向かい合って話し合うこと。また、その話」(大辞泉、小学館)などとなってしまう。ちなみに同じ辞書で「会話」を引いてみると、「複数の人が互いに話すこと。また、その話」となっていて違いがよくわからない。私なりの定義は以下の通りだ。
会話=親しい人同士のおしゃべり。
対話=異なる価値観や背景を持った人との価値観のすりあわせや情報の交換。あるいは知っている人同士でも価値観が異なるときに起こるやりとり。
では、「対論」と「対話」はどう違うのか。これを私は以下のように説明してきた。
対論は、AとBが議論をして、Aが勝ったとしたら、Bは意見を変えなければならないがAはそのまま。
対話の場合は、AとBが話し合って、Cという新しい結論を出す。どちらも変わることを前提にしてコミュニケーションをとるのが「対話」。
価値観を一つにする方向のコミュニケーションから、価値観は異なったままで、文化的な背景の違う者同士が、どのように合意形成を行っていくかが、ここでは問われている。
(平田オリザ「22世紀を見る君たちへ」より)〉
https://mi-mollet.com/articles/-/18158
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本書では「対話」の具体的なあり方として、中島義道氏の「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」から一部引用してこう書いている。
「▪あくまで一対一の関係であること
▪自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、対話すること。
▪相手との対立をみないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけていこうとすること。
▪相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
▪自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。」
実際に対話の行われる場では人数は、二人でも一〇人でも構わない。ただ、「談話」や「教授」と違って、一方的な「一対多」の関係にならないこと。また、そこに参加する人々が、一人ひとり、確かな価値観や人生観を持って、そのコミュニケーションに参加していることが重要になる。
「会話」が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置く。
対話は初対面の人間とのみ行われるものでもない。ごく親しい人との間でも、異なる価値観のすり合わせが必要となる場合には、対話的なコミュニケーションが要求される。
ではその対話が、現代日本社会になぜ欠けているのか、中島論を紹介している。
中島氏は「わが国では、(----)自分と他者との(微妙な)差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場(ここに「対話」が開かれる)が完全に取り払われている」として、「〈対話〉のある社会」として次のように提言している。
「▪弱者の声をおしつぶすのではなく、耳を澄まして忍耐づよくその声を聞く社会
▪漠然とした「空気」に支配されて徹底的に責任を回避する社会ではなく、あくまでも自己決定し、自己責任を取る社会
▪相手に勝とうとして言葉を駆使するのではなく、真実を知ろうとして言葉を駆使する社会
▪「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をグイと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し、最終的には潔く責任を引き受ける社会
▪対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にし、そこから新しい発展を求めてゆく社会
▪他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会」
ここまで、平田氏や中島氏の著書に触れて、次のことを思う。
私の場合、ここでいう「対話」をほとんどしてきてないし、したがって体質化していない。
人と話をするとき、「わかりあう」ことに重点をおき、相手のことを理解しようとして協調的になり、意見が異なると、ある程度一致するところを探りながら、話を進めてきた。
身近な人や親しい人との場合、そのようなこともありとも思うが、何かのきっかけで意見が違うと、おかしなことにもなる。
日常的なさまざまなところで、価値観や人生観の異なる人と一緒になる機会があり、そのときに「対話」することが欠かせないが、そのときに中島氏の提言は大事だと思う。
そして、平田氏は終章の「二一世紀、対話の時代に向けて」で次のように述べる。
〈二一世紀のコミュニケーション(伝達)は、「伝わらない」ということから始まる。……対話の出発点は、ここにしかない。
私とあなたは違うということ。
私とあなたは違う言葉を話しているということ。
私は、あなたがわからないということ。
私が大事にしていることを、あなたも大事にしてくれているとは限らないということ。
そして、それでも私たちは、理解しあえる部分を少しずつ増やし、社会のなかで生きていかなければならないということ。
そしてさらに、そのことは決して苦痛なことではなく、差異のなかに喜びを見いだす方法も、きっとあるということ。(中略)
そして、自分と他者との差異を見つけよう。差異の発見のなかにのみ、二一世紀の対話が開けていく。差異から来る豊かさの発見のなかにのみ、二一世紀の対話が開けていく。〉
解説で高橋源一郎氏も述べているように、人はひとりでは生きていけない存在であり、それ故に、家族や社会というものを作り出して以来、人と人との関係な中で「人間」として生かされてきて、ここまで人類として展開してきた。
ひとりでは生きていけない人間は、さまざまな人間とコミュニケートしながら社会をつくる。
その他者は、自分とはまったく異質の存在ともいえるし、相手から見た「自分」の姿でもある。
意見は違っていても、一人ひとりの独自性を保ちながら、その「差異」を全面的に認め、そこでなにが決まるか、ではなく、そこに至る道筋のあらゆる地点で、完全に自由であり、他者を尊重し続けることが重要ではないだろうか。
「二一世紀、対話の時代に向けて」の提言は、「対話」に限らず、人と人が共に心地よく生きていくためのエッセンスと考える。
参照・平田オリザ『対話のレッスンー日本人のためのコミュニケーション術』(講談社学術文庫、2015)
・中島義道「対話のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの」(PHP新書、1997)