日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎共同性と共同幻想(鶴見俊輔と吉本隆明の対話などから)

〇ひとは他者との相互依存でなりたっている。「わたし」の生も死も、在ることの理由も、他者とのつながりのなかにある。

 

 また、ひとりでは生きていけない人間は、さまざまな人間とコミュニケートしながら社会をつくる。

 

 最近の進化生物学は、ヒトは同胞とともに社会をつくり、助け合い、共存を図るという戦略によって、他の生物とは異なる特徴的な発展を遂げることに成功したようです。そうだとすると、人間の遺伝子や脳には共存に適した社会関係を維持するためのプログラムも備わっているのではないかとの仮説を提示している。

 

 上記のことなどから次のことを思う。

「対話」など人と向かい合うときには、同じいのちをもった人同士が、共によりよきものを目指しているのではないのかと、「共同性」の感情が欠かせないのではないかと思った。少なくても自分は。

 

 鶴見俊輔の印象に残っている表現に次のものがある。

  

〈戦争中、私は、殺したくないという希望によって生きた。同時に、殺す役にあたる人に敵意をもつことはなかった。殺し殺される場にともにおかれたものとして共同性の感情をもった。敵味方の区別なく、戦死者に対して脱帽する姿勢が敗戦によってたたれることなく、つづいている。戦死者が不戦の意思をもつかどうかとかかわりがない。(『鶴見俊輔座談 戦争とはなんだろうか』「戦争と不可分の戦後―あとがき」晶文社、1996)〉

 

 

  共同については、辞書には「二人以上の者が力を合わせること。同一の資格でかかわること」(広辞苑など)とあり、あえて定義をするまでもなく前後の文脈から伝わっていくような面もあるのだろう。

 

 小熊英二は『「民主」と「愛国」戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002)で次のように述べている。

「自己が自己であるという感触を得ながら、他者と共同している状態を共同性ととらえ」とある。

 共同ということばに、力を合わせるとか協調とかをイメージするが、基本は一人ひとりからはじまり、それを大事にしているお互いが力を合わせていくということであり、小熊氏の解釈はその辺りをうまくとらえていると思った。

 

 共同性を考えるのに吉本隆明にもあたってみた。以前に読んだつもりだったが、共同幻想、対幻想の記憶はあるが、あまりよく覚えていない。今度も大雑把に目を通しただけなので、心もとないが面白かった。

 

〈ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば人間の個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。」(『吉本隆明全著作集』⒒思想論Ⅱ「序」勁草書房、1972)〉

 

 国家などの作り出す幻想を「共同幻想」、個人の幻想を「自己幻想」、男女の間における幻想や家族の幻想を「対幻想」と呼び、それらの関係を考察しているところに面白さを感じた。

 

 そして、「共同幻想と自己幻想は逆立する」や「共同幻想と対幻想は逆立する」のだが、巫覡、巫女、入民幻覚、閉鎖的空間などは、逆立するはずの自己幻想と共同幻想、あるいは対幻想と共同幻想を接続するための重要な要因となる。というような展開のところで、吉本隆明の論考から、思い付きのように次のようなことを考えた。

 

 国家という大きな枠組みよりも、生活実感としては、所属している集団からの影響が大きいのではないかと。特にその集団が親密的、家族的な様相が強く出ている場合に。

 

 理想や理念のもとに緊密的な組織を作りあげているヤマギシ会の実顕地のような閉鎖的空間で、組織幻想(共同幻想?)と個人幻想や家族・夫婦などの対幻想が対立する、あるいは、呑み込まれてしまうのは。どのようにしてなのか。

 

 共同幻想、対幻想、自己幻想の関係を考えていると、個人や対人関係の悩みから所属している緊密な組織での軋轢や社会的な問題まで、多くの現象をその角度から捉え直すことができるのではないかとも思った。

 

 吉本隆明の「共同幻想論」は、「国家とか政治とか法律といった問題(共同幻想)、それから社会生活における家族それ自体の問題(対幻想)、そして家族のなかの個人の問題(自己幻想)、これが全部からまりあっているのが家族問題の大きな特徴だ。」(吉本隆明『家族のゆくえ』p147)とする、日々の暮らしにおけるもののとらえ方に参考になると思う。 

 

 鶴見俊輔と吉本隆明の対談の記録が二つある。吉本隆明・鶴見俊輔対談『思想とは何だろうか』「どこに思想の根拠をおくか」、「思想の流儀と原則」(晶文社、1997)

 この二つの対談は、お互いの思想の欠陥について容赦なく批判しあって緩むことがない。だが、お互いの信頼に基づいているので、読んでいて爽快である。

 

 鶴見:「どういう状況の分析でも、関係の概念はかならずあいまいになってきます。安保の強行採決の問題でもそうです。そのあいまいさを完全に排除して、それがまるごと自分たちに関係する問題だとして理解できない面はどうしても残ります。」

 

 吉本:「いや、ぽくはそうは思わないですね。あいまいさは残らないのだということが一つの原理として組み込まれていなければ、それは思想じゃない。ぽくに対するいろいろな批判はことごとく、どこにも現実的な基盤がないじゃないかということです。しかし、ぽくは思想というものは、極端に言えば、原理的にあいまいな部分が残らないように世界を包括していれば、潜在的には世界の現実的基盤をちゃんと獲得しているのだというふうに思うんですよ。思想というものは本来そういうものだ、そういうことがなければそれは思想といえないのだと思います。」

 

 鶴見:「わたしが吉本さんに一つ批判をもっているといえば、わたしには純粋な心情というのがいやだなという価値判断が抜きがたいのですよ。」

 

 この二つの対談からも、その他の鶴見氏の対談からも、「お互いの『ずれ』や『曖昧さ』や『疑い』を容認しながら、同一の資格で力を合わせる私たち」という「共同性」を覚えた。

 

参照:『鶴見俊輔座談 民主主義とは何だろうか』「背教についてーあとがき」。

〈はみだした部分を内心にもってこの社会を生きていると、政治について、ひとつの立場をとることがあっても、そしていったんひきうけたその立場から去らないとしても、自分と対立する立場のものの存在を否定する気分になれない。それなりの根拠を見出そうと思い、反対の立場にある人に対して、共感をもつことがある。政治とは、現状についてのひとつの決断であり、それは今の状況を計算しつくした上での決断にはなりにくいので、私の判断は、つねに保留のかぎかっこつきである。

 

 注意したいのは自分の立場の変更について自覚することであり、その立場の移動を記憶しておくことである。これがむずかしい。今、ふりかえってみて、私にとってもっとも大きな変化が感じられるのは、三十歳前までの、どういうわけかわからないで自分がここに存在しているのだが、この自分の存在はうけいれがたいという感じ方から、自分の存在をうけいれているという状態への移行である。前の段階から自分の内部に今もつづいていてあるのは、今ここにいるとして、いつでも、ここから自分をひきあげる用意をもちたいという価値意識である。

 

 これは、自分が受けいれているものをふくめて、よい社会の設計図について、いくらかの疑いを保つことへと導く。自分なりのデモクラシーの基礎である。

 固定した理想社会の像をもたないようにすると、よりよい社会は、これまでのまちがいをふりかえることをとおして、方向としてあらわれる。

 そのときにもひとつの方向にしぼるということをさけたい。むしろ、いくつもの枝葉にわかれておいしげってゆく現在と未来とを心におきたい。

 

 混沌からひとつの秩序にむかうと考えるよりも、混沌-秩序-混沌と考えるほうが、私には世界の発展の姿としてうけいれやすい。

 

 はじめに言葉(ロゴス)があり、その思想の完全な実現にむかって努力するというふうに、目標を、私にとっても、社会にとっても、さだめたくない。

 はじめに言葉があるという仮説をたてることはできる。それを支持しやすいように、その仮説を解釈しなおすことは今でもできるし、これからもできるだろう。人間の本性の底に人間共通の普遍言語が潜在しているというふうに、また生物の欲望そのものの中に協力の方がふくまれているというように。しかしそう解釈された場合の「はじめに言葉がある」という仮説をすてさるのではなく、私はそれに距離をおきたい。〉

(『鶴見俊輔座談 民主主義とは何だろうか』晶文社、1996より)