日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎異質なものとの共存(ブレイディ みかこ『他者の靴を履く』より)①

〇人類史において「協力」および「共存」が進化の一つの大きなキーワードになると言われている。それには「共感」によるものだけではなく、異質なものとの共存が大事になると考える。

 また、共感による繋がりの危うさも取り上げられるようになった。

 

 多様性への理解が求められる時代の流れのなか、さまざまなゴタゴタや揉めごとが起きているとき、「私たちの社会ではこうするのが当然だ」と同化を強要することは相手を支配することになってしまうし、逆に「相手の考えをあるがままに受け入れよう」みたいなのも現実的な解決策にならない。

 

 実際、世界という大きな枠組みに限らず、自分の身近をみても、「共感」どころか、とても理解しにくいものにあふれている。

 

 むろん、自らの見解を曲げる必要はないし、ときには「否」というのも大事ではあるが、共存というのは大切にしたい。

 

 そのような時期に、自分とは異なる考えを持つ相手の立場に立って考えてみる、知的な作業としてのエンパシー〈他者の靴を履いてみる〉という概念が話題になっている。

 

 エンパシーの概念については、英国南東部の町・ブライトンで、現地中学に通う息子の身の回りの出来事や親子の対話を通じ、英国社会や人間の普遍的問題を描いた、ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)に登場するシンパシー(共感)との対比のエピソードに多くの反響が寄せられ、生まれた本が、『他者の靴を履くーアナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋、2021)だ。

 

 エンパシーとは「他者の感情や経験などを理解する能力」のこと。これに対してシンパシーは「誰かをかわいそうだと思う感情や友情」といった意味だ。前者は、意見が違い、感情が伴わない相手であっても、その立場に立って考えられる「能力」を指すが、後者は自然とわき出る感情だ。

 

 つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。

 

 大きな違いはエンパシーは能力なので身につけるものであり、シンパシーは個人の内なる感情に基づいているということ。

 

 著者はその動機を「まえがき」で次のことを語っている。

〈しかしそれが素朴に「エンパシー万能」「エンパシーがあればすべてうまくいく」という考えに結びついてしまうのは著者として不本意な気がした。なぜなら、米国や欧州にはエンパシーをめぐる様々な議論があり、それは危険性や毒性を持ち得るものだと主張する論者もいる。すべての物事がそうであるように、エンパシーもまた両義的・多面的なものであって、簡単に語れるものではない。

 

 ならば、そうした議論があることを率直に伝え、もっと深くエンパシーを掘り下げて自分なりに思考した文章を書くことは、たった4ページでその言葉の「さわり」だけを書いてしまった著者がやっておくべき仕事ではないかと感じるようになった。〉

 

 そして、「まえがき」の最後に次のことを述べる。

〈わたしが「わたし」という一人の人間として物事を考え始めると必ずどこからか現れるアナキズムの思想が、いつの間にか当然のようにわたしの隣を歩き始めて、エンパシーと邂逅を果たした旅の記録とも言える。「わたしがわたし自身を生きる」アナキズムと、「他者の靴を履く」エンパシーが、どう繋がっているのかと不思議に思われるかもしれない。しかし、この両者がまるで昔からの友人であったかのようにごく自然に出会い、調和して、一つに溶け合う風景を目の前に立ち上げてくれたことは、この旅における最大の収穫だった。〉

 

 著者は、エンパシーという言葉とその変遷を、心理学、神経科学、哲学、社会学などから読み解き、必ずしもプラスの作用ばかりではないことも指摘する。

 多様な論考やエピソードを紹介しつつ展開していて、刺激に満ちた考えさせられる記述も多い。

 

 しかし、「わたしがわたし自身を生きる」ということと「アナキズム」を繋げて述べているところに、著者の見解は興味深いが、なにも「アナキズム」という概念と結びつけなくてもいいのではという気が少しした。

 

 本書第十章の中で次のように述べている

〈本書の冒頭で、アナーキーとエンパシーは繋がっている気がする、というきわめて主観的な直感を述べ、アナーキック・エンパシーという新しいエンパシーの種類を作る気概で書く、と大風呂敷を広げたのだったが、実は両者は繋がっているというより、繋げなくてはならないものなのではないか。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。〉

 

 だが私は、「わたしがわたし自身を生きるー誰からも支配されず自由に生きること」と同時に「他者はどこまでいっても異質な存在である」、つまり「自分は自分。他者とは決して混ざらないと言うことである」という二つの認識のもとに、〈著者のいう「コグニティヴ・エンパシー他者の感情や経験などを理解する能力」が大事になると思う。

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 〇ブレイディブレイディ みかこ『他者の靴を履く』より②

 ここでは、エンパシーとシンパシーの違いやエンパシーの四分類、エンパシーの肯定・否定論の比較、アナキスト金子文子の紹介などをして、本書全体の骨子となる第一章「外して、広げる」から主に取り上げ、付随してその他の章から印象に残る箇所を見ていく。

 

▼第一章 

 著者はエンパシーとシンパシーの違いを次のように述べる。

・エンパシー(empathy)…他者の感情や経験などを理解する能力

・シンパシー(sympathy)…1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと

 2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為

 3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解

(『Oxford Learnerʼs Dictionaries』のサイトoxfordlearnersdictionaries.com より)

 

 エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。

 

 そして、エンパシーは大きく4つに分類されるという。

  • コグニティヴ・エンパシー:他者の考えや感情を想像する力。
  • エモーショナル・エンパシー「感情的」エンパシー:他者への共感、他者の苦境へ感じる苦悩、他者に対する慈悲の感情。
  • ソマティック・エンパシー:他者の痛みや苦しみを想像することによって自分も肉体的にそれを感じる反応。
  • コンパッショネイト・エンパシー:他者が考えていることを想像・理解することや、他者の感情を自分も感じるといったエンパシーだけで完結せず、それが何らかのアクションを引き起こすこと。

 本書で重要とされているのは、①コグニティヴ・エンパシーである。

 

 次に、ポール・ブルームの否定論とジャーナリストのニコラス・クリストフの肯定論を取り上げている。

 

 ポール・ブルーム『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』で感情的に他者に入り込むと状況の判断が理性的にできなくなるので、エンパシーは「善」ではないというアンチ論を唱えた。

 これは感情的に他者に入り込むと危険、といっているのでどちらかというとOxford Learner’s Dictionariesでいうシンパシーに対するアンチ論といえる。

 

 しかも、ポール・ブルームは誰かの靴を履くこと自体も危険だと主張している。

 私たちは自分をモデルに他者を理解しようとするがゆえに〈誰かの靴を履くこと、それは特定の人物に焦点を当てすぎていて、社会全体が良い方向に進む改革を実現するにあたっての障害になると論じた。人間は身近な人の靴は履けても、顔が見えない人の靴はあまり履こうとはしないものだ、と。〉

 

 一方、ニコラス・クリストフは、エンパシーこそが社会に必要なものだと主張し、以下のように述べる。

〈貧困に陥る人の靴を履いてみれば、「貧困は自己責任だ」とか「社会に貧しい人がいるのはしかたがないことだ」というのは自らの偏見や先入観による認識のゆがみだったことがわかり、その気づきが思いやりのある行動に繋がる〉

 つまりエンパシーは各人が持つ偏見や先入観をはずすことであり、それこそが多様性を認め合うことのできる社会に繋がるという意見だ。

 

 両者の意見は正反対のようでいて方向性は一致していると著者は述べる。

「エンパシーはダメ」論は対象を絞らずに外して視野を広げろと言っている。

「エンパシーは大事」論は偏見や先入観を外して考えを広げろと言っている。

 両者とも「外して、広げろ」、つまりエンパシーは偏見や先入観を外して対象を広げろと言っている。「外して、広げろ」がキーワードのようだと本書では考察している。

 

 著者は、エンパシーの「達人」として、アナーキスト金子文子(関東大震災の際に大逆罪で検挙され獄中死)を挙げる。

 

 金子の自伝に、拷問を加え転向を迫る看守がメザシを焼いている姿を見て、看守もまた貧しい獄吏だと書いている短歌がある。著者はここにエンパシーを発見する。

 短歌「塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ」

 

〈金子文子は、自分の靴をすっと脱ぐことができるが、彼女の靴はいま脱いだ自分の靴でしかないことを、確固として知っている。こういう人は、自分が履く靴は必ず自分自身で決定し、どんな他者にもそれを強制させない。〉

 また著者は、「わたしはわたし自身を生きる」という金子の言葉は、生い立ちから生まれた覚悟であり、アナーキズムの精神に通じ、看守に向けたエンパシーは「相互扶助」だとと考える。

 

▼いくつか印象に残った表現から。

 本書ではエンパシーは必ずしも他者理解のためだけの能力ではなく、自己理解にこそ有益なのだと論じている。

〈自分の気持ちや考えを理解するということは意外と難しい。しかし、他者の経験や考え、感情をシェアしているうちに、自分が感じているのもこういうことじゃないのかと気づくことがあると言うのだ。これは読書や映画鑑賞の経験が人間に与え続けてきた気づきだろうし、他者を演じることによって自分の感情も理解できるようになると言う演劇教育のコンセプトにも繋がる。エンパシーは利他的だと思われがちだが、やはり利己的なのである。他人のためと言うより、自分のために要る能力なのだ。〉

 

〈エンパシーは一つのスキルであるから、それ自体には光も陰もない。光にするのも陰にするのも、その技術を使っている者次第〉

 

〈自分を誰かや誰かの状況に投射して理解するのではなく、他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること。他者の臭くて汚い靴でも、感情的にはならず、理性的に履いてみること。〉

 

〈分かった気になることによる弊害が引き起こす問題は、まったく他者のためにならない方向に行く可能性もある。自分自身を他者に投影するということは、他者を「自己投影するためのオブジェクト」としてしか見なさないことにもなり、自分自身から「外れる」どころか他者の存在を利用して自分を拡大していることになる。〉

 

 他者の靴を履いてみるうえで大切なことは、自分自身を手離さないことだと本書で語られている。瞬時にわきあがってくる同情や共感や反発といった感情に振り回されるのではなく、理性的に他者と距離を保ちながら、自分の靴を脱いで他者の靴を履いてみることが大事なのだと。

〈自分は自分。他者とは決して混ざらないと言うことである。その上で他者が何を考えているかを想像、理解しようとするのだ。〉

 

〈自分の気に入らないことを誰かが言うとき、わたしたちはあまりに容易に自衛的になったり、相手の議論を歪めて勝とうとする。でも、わたしたちがそれをすると、誰のためにもならない。」これなどは、いわゆるツイッターなどでの「論破」が実は建設的ではないこと、論破合戦を繰り広げることはそれ自体がゲーム化し、彼らがそもそも変えるべきと言っている状況はほとんど何も変わらないこととも似ている。〉

 

〈コグニティブ・エンパシーとは瞬時に他者の感情が伝染するような類のものではなく、相手がその感情を抱くようになった理由を深く論理的に探究するための学習と訓練の果実なのだと思う。〉

 

 アナキストで人類学者のデヴィッド・グレーバーはアナキズムと民主主義はおおよそイコールで結べると言った。〈違う考え方や信条を持つ人々が集まってひたすら話し合い、落としどころを見つけて物事を解決していくのが民主主義の実践だ〉

 

〈「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。どのような規模であれ、その構成員たちのために機能しなくなった組織を、下側から自由に人々が問い、自由に取り壊して、作り変えることができるマインドセットが「アナーキー」なのである。〉

 

※ブレイディ みかこ著『他者の靴を履く』(文藝春秋、2021)