日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎たまゆらの記⑧

〇「ある」と「する」

 日に日に私の身体の劣化が進む一方、二人の孫のぎこちない動きが徐々にしっかりとしてくるのを見守るのは楽しいし面白い。特に、1歳8ヶ月過ぎの孫の日々逞しくなっていく様子は感心する。

 

「老」と「幼」の対照的な在り方など、いろいろな思いが出てくる。また、家族のことや、人が生きて死んでいくことについて、いろいろ考える。

 

 イギリスの小児科医、精神科医、精神分析家であるウィニコットは、人間存在を「ある」(being)というあり方、「する」(doing)というあり方の二重性として把握しようとした。(D.W.ウィニコット『遊ぶことと現実』)

 

 絶対的ともいえる依存状態で生まれてくる赤ん坊は、「ある」といういまここに「いのち」として存続している状態から、「母」なる受けとめ手のもとに、成長していく過程で「する」というあり方へ移っていく。ひとの生命に組み込まれている成長、発達、自立という自然性がもたらす事態である。

 

 ウィニコットは赤ん坊の絶対的依存期から相対的依存期の過渡期である移行期(6ヶ月~1歳頃)に焦点を当て、「原初的母性的没頭」「母親のほどよい適応」「子どもは誰かと一緒のとき、一人になれる」などさまざまな提言をした。

 

 特に赤ん坊の絶対的依存期の「ある」のときに、「安心して依存できる」「安心して寄りかかれる」「安心して頼れる」、「母なるもの=受けとめ手」の信頼を原基に、子どもは他者を主体的に信頼することが可能になり、「ある」を核に次のステップを歩みはじめることができると述べる。

 つまり「ある」の先行によって、「する」が適度に形成されるようになる。

 

「する」は「できる」を含んでいる。「できる」は一人のひととしての能力であり、いのちはその存続過程で、その能力を拡張する。能力が他者の比較、評価のまなざしを接触すると、「する」は社会的価値を帯びるようなる。

「なにができる」「どの程度できる」などと。結局、親や社会など周りの期待でもある。

 

 乳幼児段階では、「なにかができる」になる過程は微笑ましいし楽しみであるが、学校的な場所に行きはじめると「する」「できる」という価値基準で評価されることが増え、さらに一段階上の現社会ではより一層根強く幅を利かすようになる。

 

 しかも「する」は、現社会の秩序や制度といった一定の枠組みに支えられていて、その枠組みの中で期待され、この期待に応えようとする意欲が生じるようになる。

 

 結局「する」への移行は、育ち初めの自然的な発露から、だんだん本人自らの意欲もあるだろうが、親や社会など周りの期待やそのような気風にそまっている面もある。

 

〇「する」から「ある」

 ウィニコットの人間存在を「ある」と「する」という二重性として理解する観点を、芹沢俊介は「老いる」過程に当てはめて、論を展開した。

 

 子どもから大人への過程が「ある」から「する」への道をたどることだとすると、「老いる」ことはそれと逆の「する」から「ある」へというプロセスをたどるというイメージが描けると述べる。

 これは厳密とはいえないが、面白い着眼であると思う。

 

 子どもといういのちと老いるといういのちの基本的な違いは、生のベクトルが逆方向になっていること。

 

 子どもは「ある」から「する」にむけてひたすらエネルギーを傾けていくに対して、「老いる」は多方面の「する」にむけてのエネルギーが緩やかになるあるいはなえていく過程でもある。

 

「する」は「できる」を含んでいる。「老いる」ということは、おのれの意に反して、それまで「できていたこと」が「できなくなること」が断続的に増えていく。

 そして不可逆的である。

 

 こうした過程と同時進行的に「ある」が少しずつ姿を現す。「ある」が「いま、ここに」失ったときに死が訪れる。

 

 大きな違いは、子どもはかなり早い段階から(生後数か月)「ある」から「する」にむけてエネルギーを傾けていき明日に向かって可能性が開かれているが、「老いる」過程は、徐々に断続的に劣化していき可能性もなえていくと思うし、いつまで続くのか見当がつかない。

 

 それと、老いると体はあちこち劣化していくが、想像力や妄想はなくならないし、心のもち方は複雑である。子どもが単純であるとはいえないにしても。

 

 だが、本質的に、人間は良く生きたいという本能を強くもっていると思われる。どんなに年を取ろうと、どんなに重い病気になろうと、どんな苦境に立とうと、「良く生きたい」という気持ちは簡単にはなくならないはずである。

 

「老いる」過程を、どのように過ごすのかが、今のわたくしの課題でもあるし、少なくても興味深く見ていこうと考えている。 

 歳を重ねることで、むしろこの身体の状態であるからこそ見えてくることもあるのではと思っている。

 

参照:D.W.ウィニコット『遊ぶことと現実』橋本雅雄訳(岩崎学術出版社 , 1979)

芹沢俊介『家族という意志 よるべなき時代を生きる』(岩波新書、2012)

三好春樹+芹沢俊介『老人介護とエロス 子育てとケアを通底するもの』(雲母書房、 2003)