〇人が生きていくときに、考えたり問い続けたりすることは大切にしたいと思っている。それに先立って「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは必然的なことである。
1歳半の孫の育ちを見ていて、多くのことを親など家族に支えられて育まれていくが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことをおさえ、ひとりの精神的な人格者として、そして「心をもつ者」として見ることが基本になると考えている。
そのことは、乳幼児期に限らず、人が生きていくことは、数多の人に支えられ、見守られながらも、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」人同士のお互いの相互作用によって生き・生かされていくのだと思う。
人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。
その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い返すことを大切にしたい。
厳密にいうと、さまざまな影響を受けながら、自分の考え方を育てていくので、自分の頭で考えるといっても限界があるが、そこを自覚する必要があると思う。
だが、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」ことは、よほどの自覚がないと難しいこととなる。
私はある団体に2001年まで25年余所属していた。
その集団内でよく使っていた表現、他ではあまり使わない独特の言葉を、説得的な言葉として、あるいはその言葉を使えば伝わるのではないかと「お守り言葉」のようなものとして使い、その言葉、表現の一つひとつを吟味することなく、自らの感性に照らすことなく、安易な使いかたをしていた思いも残っている。
その団体に限らず、政治結社、宗教団体、特定の団体など、その社会でしか通用しない、独特の言葉を多用する。広げれば、テレビやインターネットや本や雑誌や広告などで語られる少なからずの言葉・表現にはそのような要素が含まれている。
鶴見俊輔氏の考察に「言葉のお守り的使用法」がある。
「言葉のお守り的使用法とは、人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場を守るために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事の上にかぶせたりすることをいう。このような言葉のつかいかたがさかんにおこなわれているということは、ある種の社会条件の成立を条件としている。もし大衆が言葉の意味を具体的にとらえる習慣をもつならば、だれか煽動する者があらわれて大衆の利益に反する行動の上になにかの正統的な価値を代表する言葉をかぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされることはすくないであろう。言葉のお守り的使用法のさかんなことは、その社会における言葉のよみとり能力がひくいことと切りはなすことができない。」とし、お守り的に用いられる言葉の例として、「民主」「自由」「平等」「平和」「人権」などを挙げている。(※『鶴見俊輔集3 記号論集』筑摩書房)
先の戦時中、日本では、B29による空襲の戦下、各地焼野原の状況の中で、「鬼畜米英」の頭(お守り言葉)で、竹槍訓練に励んでいた人が多くいた。私たちの父母、祖父母の世代である。
今回の緊急事態宣言のなかでの、極端な「自粛警察」的な言説などは、緊急事態宣言の頭になっている人で、それほどでなくても、そのような頭になっている人も少なからずいただろう。
むろん今回のようなウイルスの場合、一人ひとりの取り組みだけでは対応できないが、それでもその状況を押さえながら、一人ひとりが考えて対応することが基本だと思う。「自粛」は辞書では「自分で自分のおこないをつつしむこと」となっている。
25日から全国的に一応解除された。
別に収束したわけでもないし、医療従事者など、依然として大変な状況はつづくだろうし、困難を抱えている人は数多いると思う。
私の場合、年齢的なものや病を抱えて大した活動をしていないので、それに甘えて、宣言が解除されようとそうでなかろうと、その時々の社会状況を抑えながら、その中で工夫して、注意深くかつ有意義に暮らしていこうと思っている。