日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎認知症になることは、不便だけども、不幸じゃない

○NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」を見る。

 認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)が、自らも認知症であることを公表した。その姿を一年余に渡って記録したもの。

 

 長谷川先生が開発した認知症スケールは亡くなった義母の診断に使われていて関心を持ったことがある。

 

〝君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する″ かつての先輩医師の言葉を胸に、長谷川さん自身の姿を撮ってもらうことで、認知症がどういうものかを伝えたいという、認知症専門医・研究者としての矜持と時間の経過とともに症状が劣化していく様子がある程度記録されていたと思う。長谷川先生の表情も生き生きしていたような気がする。

 奥さんの瑞子さんと娘のまりさんの葛藤もありながらも献身的な付き添いも印象に残った。

 

〈認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。カメラには、当事者としての不安、家族の葛藤。その一方、専門医ならではの初めての気づきも記録されている。認知症になったら、不確かな状態がずっと続くと思っていたが、正常な状態も確かに存在するということ。言葉が分からくなって話せないのではなく、「自分の言葉」に自信がなくなり、殻に閉じこもってしまうということ。確かさを取り戻すためには、他者との絆が重要であることなどが記録されていた。〉(番組案内文より)

 

 認知症を生きるのは「こんなに大変だとは思わなかった」といいつつも、「認知症になっても見える景色は変わらない。」ともいう。

 

 特に、自ら提唱したデイサービスに関してのことに、いろいろ考えさせるものがあった。

 私もそれに近い仕事をしていたし、また身内の体験を見ていて、自分がそのようになったとき、果たしてこういう感じでやれるかなと思っていた。

 

 長谷川先生は、デイサービスに行ってみて「家族や周囲の負担を軽減できると思ったが、本人の希望にマッチしているかどうか」と語っている。

  また、デイサービスに行くのをやめたいと言い出し、でもそうすれば家族の負担が大きくなることもわかっているので、娘さんに「僕が死んだら家族はほっとするだろう」といって「そんなことないよ」と娘さんにたしなめられる場面もある。

 

 奥さんや娘さんの負担を考えて、老人ホームの体験宿泊に行ってみて「うちへ帰りたい」といい、ご自分の仕事部屋に帰りたい、「あそこが僕の戦場。そこで僕は戦うんだ」とおっしゃるくだりは共感するものがあった。

 

 それにしても、先生の奥様と娘さんの献身的な向き合い方は印象に残る。奥さんはチャイコフスキーの「悲愴」が好きという先生のためにピアノを弾き、飲む薬の管理をし、講演に行くときにはつき添い、日常生活全体を支えている奥様がいて、娘さんがいる。先生から「瑞子に感謝」ということばが出てくる。

 

 そして次のことも思う。日本の「介護」問題が個々の家庭内で対応するのではなく、社会的に相互扶助の精神で対処するという目的で介護保険制度ができたけれど、結局家族やそれに近い仕組などの手厚い支援がないと、このようなケースは生まれにくいのではないだろうか。 

 

 なお、認知症といっても一人ひとり違いがあり類型化できないが、今のところ脳の萎縮は超高齢化社会において誰にでもついてまわるもので、誰もが認知症になりうる時代、このような記録はありがたい。

 

 長谷川さんは「自分が壊れていくことを自覚できなくなっていく」という感覚を自覚しておられる。

 症状は違うが、次第に自分も身近な人の強い支えがなければ暮らしていけなくなるおそれもあり、いろいろな心構えの参考になるように思った。

 

参照:2018年3月16日に、長谷川和夫さんが聞き手・及川綾子さんに語った記事が朝日新聞DIGITALに掲載されている。一部抜粋する。

〇【認知症になった認知症専門医 「なぜ私が」患者の問いに】有料会員限定記事

〈かつて、「痴呆」と呼ばれて偏見が強かった認知症と、私たちはどう向き合えばいいのか。長谷川和夫さんは半世紀にわたり、専門医として診断の普及などに努めながら、「認知症になっても心は生きている」と、安心して暮らせる社会をめざしてきた。89歳の今、自身もその一人だと公表し、老いという旅路を歩んでいる。

 

 ――自身の認知症を疑ったきっかけは、どんなことでしたか。

 「これはおかしい、と気づいたのは1年くらい前かな。自分が体験したことに、確かさがなくなった。たとえば、散歩に出かけ、『かぎを閉め忘れたんじゃないか』と、いっぺん確かめに戻る。確かに大丈夫だ。普通はそれでおしまい。でも、その確認したことがはっきりしない。そして、また戻ることもあって」

 ――昨年11月に病院に行き、診断を受けたそうですね。

 「弟子が院長をしている専門病院に、家内と行ったんだ。MRIや心理テストを受けたら『嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性認知症』っていう診断がついた。物忘れ以上のものを自覚していたから、あー、やっぱり、と。戸惑いはなかった」

 ――初めて聞く名前です。

 「このタイプは物忘れや頑固になるといった症状が出るが、進行は遅い。昔より多少イライラする頻度が増えたかな」

 「認知症になるリスクは、年を重ねるごとに高まる。長寿化に伴って、僕のように80歳、90歳を過ぎてからなる人は増えていく。これを『晩発性認知症』という、一つのカテゴリーだと唱えている。100歳でも全然ならないピカピカの人もいると思うんだ。それはエリートだな、ごくわずかの」

 ――公表することに、ためらいや迷いはなかったですか。

 「いやいや。僕が専門医であることは知られていて、その僕が告白して講演などで体験を伝えれば、普通に生活しているとわかってもらえる。認知症は暮らしの障害で、暮らしがうまくいくかどうかがいちばん大事。僕の話から多くの人が理解してくれれば、認知症の人の環境にもプラスになる」

 ――今は、1日をどのように過ごしていますか。

 「朝6時半ごろに起きて、朝昼晩の食事。その間に散歩したり、図書館や近所のコーヒー店に行ったりする。今日が何月何日なのか、時間がどれくらい経過したかがはっきりしないけれど、不便だと感じることはあまりない。夫婦2人だけの生活で、やるべきことは毎日ほぼ同じだからね」

 ――医師として働いていたときには思いもしなかった発見は、何かありますか。

 「『デイサービスに行った方がいいですよ』と患者さんに言っていたのに、今度は自分が行くことになった。昨年6月に転んで骨折してから週1回通っているが、学ぶことが多いね。午前中に入浴があって、スタッフが体を洗ってお風呂に入れてくれる。いかにスタッフが訓練を受けて、一人ひとりの利用者の情報を持っているかがケアでは大事なのか、その言葉やしぐさからわかる。自分の体を通して、勉強している」

――振り返って、患者さんに「ああしておけば良かった」という思いはありますか。

 「ある男性の診察をひと通り終えたとき、僕に一つ聞きたいと言ってきたことがある。『先生、どうして私は認知症になったんですか。他の人ではなく、どうして私なのでしょうか』。切羽詰まった感じで、何と答えたらいいか、わからなかった。何も答えられなくて、その人の手を握って。目を見つめて、そうだよね、と言った。今はより、彼の気持ちが、あの質問の思いがわかる。それでも同じことしかできないと思う。だって、神様ではないから。答えなんて、わからないよ」

 

 ――現役時代に開発した、九つの質問で測る簡易診断テストの「長谷川式認知症スケール」は、広く臨床の場で用いられてきました。

 「元々は、てんかんの診療をしていたが、1960年代に東京都内の老人ホームの利用者を対象にした健康調査を任され、初めて認知症の人の診断をした。上司から、誰が調べても診断が一致するような『ものさし』をつくりなさい、と言われて考えた」

 ※長谷川式認知症スケール

 認知症診断のための簡易スクリーニング検査で、長谷川さんが1974年に発表。91年に改訂された。「今いるところは、どこか」や、少し前に覚えたことを思い出してもらうといった九つの質問に答える。30点満点で20点以下の場合に、認知症の疑いと判断される。この検査だけで認知症の確定診断はできない。

 

 ――誰が検査しても、ほぼ同じような診断結果が出るのが、特徴です。

 「困ったな、と思うこともある。安易に使われすぎて、本人の気持ちを考えずに検査をする医者がいる。質問で『お年はいくつですか』と、のっけから大事な個人情報を聞く。それからいい大人に『100から7を引くと、いくつですか』とも尋ねる。『冗談じゃない、何を言っているんだ』と怒るのは当然でしょう。診察に必要だからと、医者の側が本人と家族に協力をお願いする姿勢が、必要なんだ」

 (以下略)

参照:

www.nhk.or.jp