日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎一生の一度きりの生を慈しむ

(31日)〇年の暮れに今年を振り返って

 26日に娘の夫の祖母が亡くなりました。86歳のとき大病を抱え、それと向き合いたいと、一志開催の研鑽学校に参加し、終えてすぐに、居宅に遊びにいらっしゃいました。シャキシャキした方で、今後のこと、その村のことなど話し合いました。

 

 今年同年代の友があい続けて亡くなりました。特にSさんとMさんとは45年来の交流があり、ずっしりと胸にこたえるものがありました。

 一方年末に7人目の孫の誕生を知らせてくれた友人もいます。「アイズ」など新たな出会いもいくつかあります。

 

 わたし自身は難病にかかりました。人にとって死は必然的であり、病も何らかの要因があります。そのようになる流れがあるのでしょう。大ぶりな言い方になりますが、生老病死は天からの授かりものとも見えます。

 この病状とつき合うことで、老いる・生きることについて楽しくみていきたいと思っています。

 

 また、自分たちもどの人たちも、日々豊かに暮らせる社会の中で暮らしていけることを願っています。

・去年今年次代につなぐよきものを

 

〇あけましておめでとうございます

 正月になると、普段見慣れているものが、ほんの少しあらたまって見えるところが面白い。俳句季語は、初日、初春、初夢、初富士、初雀、初旅などなどきりがありません。

 初をつけることで、今年一年のはじまりであり、こころ新たにそれと向き合うということだと思います。

 

 今朝、いつも大雑把にしている「慈悲の瞑想」をゆっくり唱えてから起き、洗面、朝食、朝の体操と、一つひとつかみしめながら、だんだん雑になっていきましたが、どうも心の置き所によって、感じ方がずいぶん違ってくるものです。

 

 “一期一会”の「生涯にただ一度まみえること。一生に一度かぎりであること」の意として使われる言葉があります。

 何事も今のこれはその場限りのことで、ものごとも人も出会いも、その時その時で違っていて、動的平衡しつつ、徐々に変化していくとみています。

 

 日常のこまごましたことはともかく、病を抱えていても抱えていなくても、宇宙からの贈り物と見ている一生の一度の生を慈しみ、それを楽しむといふことにならなければ、生きていても何の面白味もないと思います。

 

 今年もよろしくお願いいたします。

 

参照1:正岡子規の随筆『病牀六尺』

二十一「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(六月二日)

七十五「 病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の 面白味もない」 (七月二六日)

 

2:「一期一絵」の語源の由来は、千利休の弟子の山上宗二著書『山上宗二記』の「茶湯者覚悟十躰」の中の言葉。「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」の意。そこから転じて使われている。(ウィキペディアなどより)