日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録(1~2か月)「生物的な親」から「受けとめ手としての親」へ

 〇 出産後、自分の体のことで娘が病院に行くことになり、孫はわたしたちの居室で過ごすことになった。誕生後40日ほどで、母親から離れて別の部屋での初めての体験である。

 孫にとっては、未だ母というより受けとめ手として、お腹がすく、あるいは何か不快なことにより泣けば、受けとめ手の母親は何をおいても適切に対処しようとする。

 そんな身近な受けとめ手(娘)がいない環境でどのようになるのか、興味深くみていた。

 

 まず、わたしたちのベッドに寝かせ、妻は「そばに誰かいれば安心するのよ」といいながら添い寝をした。はじめ珍しそうに眺めていたが、そのうち眠りにつく。しばらくすると泣き出し、妻が抱きかかえると、すぐに気持ちよさそうに目をつむる。ベッドに戻すとまた泣き出す。やがて眠りにつきベッドに寝かせる。

 むろん孫には血縁意識などあろうはずがなく、傍に受けとめ手がいることが大事なのだろう。3時間ほどであったが、とても面白かった。

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〇「生物的な親」と「受けとめ手としての親」は必ずしも一致しないことを踏まえて、芹沢俊介は次のようにいう。

〈生物的な親子は「親子である」という親子関係の出発点にすぎず、そこから受けとめ/受けとめられを基本関係とする「親子になる」というプロセスがはじまるのである。

 子どもといういのちにとって望ましい親子の対幻想は、生物的な親が、いのちの受けとめ手というモチーフに先導され、受けとめ手の親というあり方にその重点をシフトしてゆく過程に、あるいは生物的な親が受けとめ手の親というあり方を新しく獲得してゆく過程に生じてくるのである。この両方の親子の対幻想に抱擁されてあるとき、子どもといういのちは安心し、安定する。そうなってはじめて、約束されているはずの自らの成長・発達の過程を歩むべく全エネルギーをそこへと注ぎこむことが可能になるのである。

 これをウィニコットは「子どもは誰かと一緒のとき、一人になれる」というふうに命題化したのである(『遊ぶことと現実』)。「誰か」とは誰でもいい誰かではなく特定の誰か、受けとめ手のことである。〉(『家族という意志』P67)

 

「生物的な親」から「受けとめ手としての親」への移行が未完了だと、子育てに困難を覚えたり、拒否感を覚えたり、はては暴力、遺棄や虐待につながっていくこともある。

 さらに、受けとめ手が現れないこと、受けとめ手がいなくなること、受けとめ手を失うこと、要するに受けとめ手の不在、欠如という事態があると不安を抱えたまま成長することになる。

 

 乳幼児期の体験はそのまま「心の核」に保存されていて、成長後の人間を支配する面があり、その時期の母子関係がのちの他者との「関係の原型」になる。当然このことは人間一生にも通じるという指摘をする人も少なからずいる。

 

 だが、子どもからみたら、どのような家庭に生まれ、母親や養育者を予見できるわけではない。自分の暮らしで精一杯の親もいるだろうし、生まれながらにして、あるいは何らかの事情により児童養護施設などに入れられるケースもある。

 

 わたしの知人に、熊本の赤ちゃんポストから乳児を引き取り、何年か一緒に暮らし可愛さが増したころ、里親となる人に引き渡すことになり、それまで育つ過程の話や写真を見せていただいたことがある。そのような里親活動をしているグループがあるそうだ。

「受けとめ手」は血縁関係と関係なく、その他の関係でも機能するのだろう。

 

 広げて考えれば、特定の「受けとめ手」がいること、それを支える人の和は、乳幼児期には切実な問題となるが、ある程度成長するまで、子どもの育ちに関する大きな課題ではないだろうか。

 

※ウィニコット:イギリスの小児科医、精神科医、精神分析家。特に対象関係論の領域や「ほどよい母親」「独りでいられる能力」などが広く知られている。

〈独りでいる(いられる)能力(the capacity to be alone)とは、情緒的成熟と密接に関連した、安心して孤独を楽しんでいられる力のことである。独りでいられる能力は洗練された現象である。----いろいろな体験が独りでいられる能力の確立に寄与するが、その最も基本的なものは、「幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて独りであった」という体験である。つまり独りでいる能力は逆説であり、誰か他の人が一緒にいるときにもった、「独りでいる(to be alone)」という体験である。他者と一緒にいて独りであるということは、未熟な自我が、母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得る人生早期の現象である。こうして時を経るとともに、自我支持的な母親を取り入れ、母親が四六時中横にいなくても、独りでいられる能力が育ってくるのである。(『ウィキペディア』より)〉

 

参照・芹沢俊介『家族という意志』(岩波新書、2012)

・ウィニコット『遊ぶことと現実』(橋本雅雄訳、岩崎学術出版社、1979)