日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎義母の3回忌に思う

〇法事やお墓について
 先日義母の3回忌の法要、法事を執り行った。喪主はわたし。4月に母の3回忌があり、いずれも90歳を超えての死で、自然の流れのようであり、故人を偲ぶというより残された遺族の親睦の機会という感じだった。親族たちと交流するのは1年ぶりであり、話も多岐にわたり懐かしく面白かった。
 また、今後のことについて先送りにしていた課題と向き合う機会にもなった。

 義父が太平洋戦争前に建てたお墓は住職のいない空き寺で、私たちも含めて10数軒の檀家が管理している、空き寺なのか、何となく寂れた感じがする。

 戦後、一家が朝鮮の元山などから引き揚げてきて、そのお寺の別室を仮住まいにした。そこで妻は生まれ、10年程義姉や叔母と一緒に暮らしたそうである。3人が思い出し笑いをしながらその当時を振り返っての話は聞いていて微笑ましかった。

 お墓には、義父の両親と義父母の遺骨が埋葬されていて、子どもは娘二人で、あとその墓には誰も入らない。義父母を知る人も少なくなり、私たちも高齢化していずれ訪れる人もいなくなるだろう。
 なお、数代続いた祖先の私の実家の墓は、長兄に管理を一任している。孫もいて、受け継がれていくと思う。

 

 昨年、義父母が40年近く暮らした出雲の家を整理し神戸市に移住した。長年暮らした家をそれなりに整理するのは結構なエネルギーがいるものだと思ったが、その家と畑を引き続き使いたいという人が現れ、一応滞りなくやりあえてほっとするものがあった。お墓については、いずれ考えなければと思っていた。

 義父母の法要を依頼しているお寺さんと相談したところ、永代供養用の一画があり、そこに家族別の合葬墓を設置しているということで、時期を見て、そこに埋葬することになるだろう。

 少子化や人口の都市間流動化などでお墓を継承する人がおらず,無縁化した墓地の増加は深刻な社会問題ともなっていて、その相談も増えてきているという。この辺りは空き家も増え続けていて近辺の課題になっていた。

 子どもたちに、私たちはどうするのか尋ねられたときもあり、いろいろ調べてみた。
 死の迎え方や価値観の多様化に伴い,葬送に対する意識も多様化していて.家族葬や宗教色のないお葬式など,しきたりにとらわれないケースも増えている。
 今のような家族や祖先のお墓を設置することが慣習的になったのは明治時代以後で、そもそも仏教には祖先祭祀という考えがないそうである。

 墓地には、公営の墓地・納骨堂、民間霊園、寺院墓地などがあり、個人から複数人による合葬墓、永代供養墓などがある。埋葬の仕方は土葬や火葬などがあり、現在日本ではほとんどが火葬となっている。
 出雲では家の一隅に墓を建てているところもあり、わたしは村人代表で墓に入り骨壺を収めたことがある。

 また、海や山への散骨(節度をもって行われる限り認められるということになっている)、樹木葬、宇宙葬、島田裕巳が提唱している「0葬」(火葬後にお骨を受け取らないで火葬場に一任する)などがある。それらを紹介、斡旋する「葬送の自由をすすめる会」などの市民団体がある。

 妻とは樹木葬もいいねと話をしている。ゆくゆくは大いなる自然の懐に抱かれていくというのは無理がない感じがしている。
 法事。法要については今まで慣習的に執り行ってきたが、宗教法人に特別な思いはないし、漠然としているが、子どもや親しい人に分かるような場所にひそかに二人用の埋葬地を見つけたいと思う。(※2017年12月現在、考え方が変わってきているが、どうなることか)。

 法事については、出来るだけ簡便をと願っているが、子どもたちが考えればいいのではないだろうか。

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〇わたしの死期や死後について
 死については、良寛の「死ぬる時節には死ぬがよく候」や吉本隆明がしばしば触れている、高村光太郎の亡くなった母を追慕した短詩『夏書十題』にある「死ねば死にきり。自然は水際立ってゐる」が気にいっている。

 身近な人たちの死に触れたり、癌などによる長期入院の報せが続いていたりして、ひとの死について、いろいろなことを思う。
人間の死について問うことは大事なことだと思っているが、「生死は不定であり」、自分の死について体験することはできないし考えても仕方がないと思っていて、むしろ生きているときは、どのように生きていくのか、できれば、よりよく生きていこうとすることを考えるしかないと思っている。
 一方、死期が迫ってきたときにどんなことを思うのか、一抹の不安と楽しみにしている気持ちもある。

 

 義父母は、80歳の時『元山脱出』という手作りの小冊子を作成し身近な人に配った。そこには、「引き揚げて五十年目を迎えるに当り往時を回顧し子や孫に語り継ぎたく拙いペンを取りました。」とある。
 ボケがすすんでいた義母の晩年、おそらく彼女にとって記憶に大層焼き付いているのか、小さな時から育った朝鮮時代のことや朝鮮元山からの命からがらに引き揚げた話を聞くことがよくあり、小冊子の背景のイメージが少し広がる感じがした。

 それまで肉親から戦争時のことを殆ど聞いていなかった、聞こうとしなかったこともあり、義父からも少し聞いていて、とても印象に残っている。
 長期入院したある知人から随時「日録」が送られてきて、いろいろ考えさせられることも多く、自分も日々思っていることを書きついでいく、あるいは語っていくことも大事にしていきたい。

 9年程前に義父母と暮らしはじめて馴れ親しんできたころ、義父から「家のことも含めて一切、お前たちの思うようにしたらいいよ」と言われ、感謝の言葉と延命治療をしないでほしいという趣旨の手紙をいただいた。

 義父の性格から、そのまま気持ちを受け取り、いろいろな意味で助けられたと思っている。97歳を過ぎた頃、義母の頬に癌が出来た時に、かかりつけの医者から私たちに手術するかどうかの判断を問われた時、きっぱりとしないでくださいと言っていた。

 私と妻に関しては、どちらか意思表示ができる限りはそうするし、二人ともそのような段階をこえた場合は、延命治療はしないということを子どもには伝えていこうと思っている。

 こちらへの引っ越しに際して物などいろいろなことを片づけていることや、子どもにある程度気持ちを伝えているので、わたしたちの死後の整理にはあまり手間はかからないだろうと勝手に思っている。それと、どのようにされようとも、死後のことは残された人で考えたらいいのではないかという思いがある。